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土台となるもの。

「いい絵、描きますね。」

5年ほど前に、そう声をかけてもらった。


当時、絵の予備校に通っていた。受験を控えた学生もいれば、趣味・嗜好でふらっとくる人もいる。どうぞお立ち寄りくださいね、と明るい雰囲気で迎えてくれる。生徒によって、目的も年齢もさまざまで。

私は後者の方で、月に4回ほど、先生のご自宅に遊びにいくような感覚で、その時間を堪能していた。

幼少期から絵に関心があり、観ることも描くことも好きだった。大人になるにつれて、描くことからどんどん遠ざかり、ただの憧れへと変わりつつあることに、危機感を抱きはじめた。

自身のアイデンティティが一部崩落してしまう、ナルシストともストイックとも取れるこの考え方が、私を一歩前に押した。


りんごを描くデッサンからはじまり、そこから1年ほど白黒の世界と向き合った。黒を足して物質をかたどって、黒を引いて光を入れこむ。その一連の作業が、地味で果てしなくて、どこか眩しかった。モノクロの可能性、立体を平面に落とし込む、過程がたまらなく芸術的で心が躍った。

光の明暗だったり、デッサンのルールだったり、知らないことばかり。絵というのは、数学みたいなもので、実は規則だらけ。自由に見えて、本当は不自由。なのに、どこか心地よい。ルールに従えば、ちゃんと形になる。

それは基礎であり、これから土台になるもの。

血となり肉となる、もの。


ヘンテコに見える、現代アートも、
目を凝らしてみれば、そこには規則があり、創造があり、物語がある。
冷静かと思えば、感情をおおきく取り乱す。不安定な両局面を、頑丈な土台がしっかりと支える。

人間らしさが、そこにうまれる。



「いい絵、描きますね。」

描くことを学んで、1年が経ったとき。
そう声をかけてもらえた。いつも挨拶を交わす60代くらいの男性。

初めて色物に挑戦した日。正直、ぜんぜん上手くない。先生から見ても、私から見ても、そうだった。

けれど、そのひとことは、純粋に嬉しかった。

うまい、ヘタ、上手、とかではない。その”らしさ”を褒めてもらえたから、余計に、心に響いたのだと思う。


男性は北尾さんといい、私が学校にくる1年も前からデッサンを描き続けていた。まだまだ足りないと、北尾さんなりの終着点を目指して、突き進んでおられた。先生は何度も「水彩画してみたら?」「色鉛筆はどう?」と次のステップを提案していたが、全く揺るがなかった。まだ、足りない、と。

だが、翌週、急に路線変更を申し出た。
けろっと、水彩画を描いてみる、と言い出したのだ。あんなに頑なにデッサンデッサンと言っていたのに、先生もこれにはびっくりで。

「いい絵を見たからね。」

そう、こそっと私に言ってくださった。
何度も言うが、決してお世辞にも”上手な絵”ではない。

けれど、石みたいに頑丈な北尾さんのお心を、どうにか動かすきっかけになったのなら、こんなにも嬉しいことはない。

誰かにとっての、”特別”になれるのなら。



コロナウイルスが流行し、予備校がしばらくお休みになった。しばらくして、私は引越しをし、通っていた学校はやめた。

アーティストに囲まれながら創作をする、あの時間が私にとって宝物で、今も自分の土台になっていることに、変わりはない。

つくりだすものが、絵であったり、文章であったり、雰囲気であったり。

誰かにとっての、”心地よい”を、私は目指し続けたい。




*あとがき*
昔の話、ひっぱり出してきました。私の書斎から、手書きのエッセイが出てきて、、過去にこの話を書いてまして。現在を書き加えて、記事にしました。書いて残してくれて、5年前の自分ありがとう~。時間が経っても、時代は変わっても、人間の本質は変わらない、ですよね。


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