感染症のさなかに

Aさんは、ちょっと大変な方だった。
入院時から酸素ボンベを手放さず、眠るときは無呼吸予防の機器を装着していた。「これは私の命綱。丁寧に扱ってちょうだい」対応が悪い職員には長いお説教。と、いう顛末の、ご本人からの報告もまた長く、なかなか解放してもらえない。
「薬局からお電話です〜」「ドクターから急ぎの指示です〜」と、適当な理由で救出したりされたりすることもよくあった。

さて、Aさんは世を騒がせた流行り病にかかってしまった。
著名人の命も奪ったファーストインパクトは忘れがたい。院内に蔓延したウイルスに私たちは完敗だった。Aさんは「私ももうだめよ」と、泣いて嘆いての毎日だった。
「有り金ぜんぶ先生に預けますって渡されちゃったよ、1200円。お墓のこととか頼まれたけど足りるかなあ?」給料泥棒と陰で呼ばれるドクターがAさんのところから戻り、えへらえへら言うが誰も相手をしない。「先生レッドゾーンから物を持ち出さないでください」師長が一喝する。職員も次々に感染し、みなピリピリしていた。

ナースコールは時に困った代物で、電話やマイクと勘違いしている方が多い。誰と何を交信しているのかはご本人にしかわからない。
ともかく、感染部屋と濃厚接触者の部屋は、いかなる内容でも防護服なしには入室できない。人員や効率を考えれば、ついでがある時に必要なすべてをすませる。
が、いざ入っていくときは恐ろしい。ウイルスももちろんだが、扉の中では大小様々な事件が起きているからである。
Aさんも言動が不安定になり、ついに酸素チューブを引っこ抜き頭に巻いていた。投与は中止されたが体調に問題なく、酸素必要なくね…?という霧が晴れたことだけは、結果としてよかった。

ウイルスというのは本来、宿主を渡り歩いてはいずれ消滅していく人騒がせなものだ。どうにか隔離解除になり、懸念されたAさんの呼吸器症状にも変化はなく、よかったね〜というある夜だ。

「兄が戻ってきて、そこにいるわ」と、真顔でAさんが言う。
えっ?と返すと、「そこよ。そこにいるじゃないの。戦争に行っていたのよ」
その夜を境に、かつてのAさんとは思えないような下ネタも連発し、職員をびっくりさせた。
懇意にしている家族はなかった。お子さんらしきお名前はいくつか口にされたが、実際のところはわからない。出生地なのか?方言も急に飛び出したが…それもやがて、すっかり聞かれなくなった。

「口に合わない」「量が多い」と、いつも残していた食事はモリモリ食べた。
片時も一人でいられなくなり、人を呼ぶためにはお茶の入ったコップを投げたりカーテンを引っこ抜くなど何でもやった。時々「おかあちゃん」と甘えてきたりもした。
少し鎮静をかけた方が本人のためではとか、それは倫理的にどうだとか、いやいや夜勤は本当に大変だし危ない、などなど様々な意見があり、どれも間違いではないのだった。

さいごまで職員を悩ませたAさん。
もっと早く、ご飯もおやつもたくさん食べたらよかったじゃん。さみしいと言って、もっと人と仲良くしたらよかったんだ。酸素なんてなくてもどうやら動けたし、もっとあちこち行かれたかもしれないよ。
でも、そうもできない、いろいろなことがあったのだろう。少しは楽になれたかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?