【一首評】まみの髪、金髪なのは、みとめます。ウサギ抱いてるのは、みとめます。/ 穂村弘


※はじめて一首評をしてみました。はじめてなので(せっかくなので)いちばん好きな歌集から選びました。



穂村弘の『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』について、いまさら何を言えるというのだろう。

目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき

穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士

穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

これら代表歌に関しては、すでに幾度となく引用され語り尽くされているし、私がそれに何か新しい読みをつけ加えられるとも思えない。

そこで本稿では、彼の(キッチュでかわいくてこわくてかっこいい)歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』から、比較的語られることの少ない作品を掲出歌に選んだ。

まみの髪、金髪なのは、みとめます。ウサギ抱いてるのは、みとめます。

穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

初読の段階でいちばん印象に残るのは「みとめます」のリフレインであろう。穂村の短歌には、こういう、前半部と後半部で同一フレーズを繰り返すものがたびたび見られ、同歌集でも、

こんなの嫌、全ぶ嘘でしょう? こんなの嫌、全ぶ嘘でしょう? 嫌

穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

解放せよ、タンバリンを飾る鈴。解放せよ、果たされぬ約束。

穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

といった歌を挙げることができる。前半部と後半部、ということにこだわらなければ『手紙魔まみ』には、こういう、どこか舌足らずな反復フレーズが溢れかえっている。いっそ『手紙魔まみ』は「反復」の歌集である、と言ってよいくらいだ(余談だが、反復に差異を導入すると「リスト」になる。そしてもちろん『手紙魔まみ』は「リスト」の歌集でもある)。

音数と定型に支配される短歌において、同一フレーズを繰り返すのは、本来かなりリスクのある手法だろう。しかしそのリスクゆえに、同一フレーズが詩的表現として昇華される場合、それは異様に強靱な希求力を持ちうる。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

笹井宏之『ひとさらい』

この歌を引くまでもなく、われわれは強く希求する人間の「こわさ」を知っている。希求のために幾度となく反復されるフレーズは、ついには自壊し、すなわちそれ自身がそれ自身の意味性を解体し、「呪文」へと接近する。こういう、限界を突破するような希求力を、穂村はかつて〈愛の希求の絶対性〉と呼んだのだった(※1)。

ハロー 夜。 ハロー 静かな霜柱。 ハロー カップヌードルの海老たち。

穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

この歌集を代表する傑作だが、この歌について山田航は「不自然なくらいにひたすら優しい気分になって、とにかくなんにでも語りかけるという状態が、『まみ』の不安定な精神を逆に照射している」と分析した(※2)。「ハロー」と呪文を唱え続けること。外界に何かを希求し続けること。それは、「永遠に満たされない」という心理状態の裏返しである。

掲出歌に戻ると、この作品も、山田の言った〈不安定な精神〉を端的に表現していることが分かる。作中主体としての「まみ」は自身の状態(金髪・ウサギを抱いている)について、「みとめます」と繰り返す。アイデンティティを固く保持する精神であれば、「みとめます」などと言う必要はない。しかし「まみ」は(「ハロー」と言わずにいられなかったように)「みとめます」と認可を与えずにはいられない。

しかも、ここで使われる助詞「は」には、どこか「それ以外」のものを排除するニュアンスがある。ゆえに、「まみ」が「金髪なの」「ウサギ抱いてるの」と言うとき、彼女が自己像を峻厳に取り分け、そのうち認めうるものを選択していることが暴かれている。これは健全な精神とはほど遠い。アイデンティティは揺らいでいる。


すこし逸れるが、『手紙魔まみ』を読むという体験は、「まみ」と「ほむほむ」のあいだの甘やかな「距離感」に溺れることである。例えば、こんな歌が収録されている。

この手紙よんでるあなたの顔がみえる、横がおと、正面と、みえる

穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

『手紙魔まみ』は手紙のやりとりをベースにした歌集である。手紙が喚起する相手への強烈な想像力は、穂村の言う〈愛の希求の絶対性〉を生みだしうる。そしてその〈愛の希求の絶対性〉は、時に現実の愛の成就のビジョンを超越する(たとえば、文通相手と会ってみたら幻滅、ということがありうる)。だからこそそれは現実世界に詩的飛躍をもたらすのだ。

上に引用した「この手紙」の歌は、その意味でも、掲出歌と対になるような歌だろう。物理的距離はふたりの間にノイズを生じさせる。ノイズは相手のイメージを曇らせ、欠落を引き起こす。しかしそれゆえに、欠乏性・希求性は強化され、そこにポエジーが滑り込む。「まみ」が「この手紙」の歌において「みえる」と繰り返さずにいられないその〈不安定な精神〉は、掲出歌において「みとめます」と繰り返さずにいられない〈不安定な精神〉の、いわば変奏と言える。

だが、実はふたつの歌は決定的に違ってもいる。「この手紙」の歌は、自分から見た相手のイメージについて詠まれている。一方で、掲出歌は相手から見た自分のイメージについての歌である。ここまで書いて見えてくるのは、掲出歌において〈私性〉がかすかに倒錯していることだ。

掲出歌では、「まみ」の自己のイメージは、他者の視線を通した逆照射によって規定されている。ここに、他者を通してしか自己を規定できないという、より深刻なレベルでのアイデンティティの危機を見ることができる。

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

寺山修司『空には本』

ここで、上に引用した寺山修司の歌と比較してみよう。青春の瑞々しさがストレートに伝わってくる名歌だが、実はこの作品は視線の問題においてとある奇妙さを抱えている。というのも、この歌では「少女」という他者が内面から規定され、「麦藁帽」の「われ」の方が外側から捉えられている。この奇妙さについて、穂村は「これは一見ささやかで、しかし、一人称の視点を原則とするこの詩型においては特異な逆転現象だと思う」(※3)と分析している。

そして掲出歌は、寺山の歌におけるこの〈逆転現象〉とよく似ている。「われ」の「麦藁帽」が「少女」の視線によって規定されたように、「まみ」が「金髪なの・ウサギ抱いてるの」を規定するのはおそらく遠く離れた「ほむほむ」の視線だ。

しかし、その「ほむほむ」の視線は、何というか、非常に心許ない。この歌の決定的な欠落感はそこにある。寺山の歌において、「少女」と「われ」は空間を共有するゆえにひとつの小宇宙を形成している。しかし、再三述べてきたように「まみ」と「ほむほむ」の間には物理的な距離があって、ふたりの小宇宙は絶えず瓦解し、ノイズの海に揺蕩うことになる。

穂村がこの歌で描こうとしたのは、確かな自己像を持つことのできない現代人が、いつか自己と他者の視線が完全に同期する可能性を永遠に求め続ける、その恐ろしいほどの希求性だったのではないだろうか。たとえそれがノイズのまみれの視線の行き違いに終始してしまうとしても、それでもなお可能性の成就を渇望する強烈な感情が、この作品のポエジーを形作っているのだと私は思う。


〈参考文献〉
(※1)穂村弘(2019)『短歌という爆弾 ー今すぐ歌人になりたいあなたのためにー』小学館、p245-255
(※2)穂村弘・山田航(2012)『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』新潮社、p94
(※3)寺山修司(2021)『寺山修司全歌集』講談社、p344(穂村弘「解説Ⅱ 透明な魔術」)



翠川蚊 2022/08/10

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