語らない夫

今、家に夫・アディ(以下、アディ)の友人が二人来ている。

釣り仲間でアディの船のキャプテンを任せているAと、幼馴染で近所に住むBだ。

Aは超のつく恥ずかしがり屋で、いつもニコニコとはにかんでいる。
私とは会釈するだけでほとんど話さない。

Bは耳が聞こえないので、身振り手振りで話す。

アディもどちらかというと静かにリラックスして過ごしたいタイプで、にぎやかに話すことはない。

今日も三人は、庭にビニールシートを敷いて、その上で私の作ったかき揚げのようなつまみを肴にコーヒーを飲みながらゆったりとしている。

それぞれおもいおもいに音楽をきいたり、誰かと電話をしたり、動画のサッカーを見たりしている。

せっかく会ったのに、誰も話さない。

なにやってんねん…。

「人と会ったら話してなんぼ」の私からしたら、彼らの世界観がまったく理解できない。

会ってもなんにもしないのなら、自分の家でまったりすりゃいいのに…。

友達とはそれでいいかもしれないけど、家族とは話してくれないと困るんだよ。

このところ、私はあまり多くを語らない夫に手を焼いていた。

私は小さな頃からわりと口が立つほうだったのもあって、「話してくれないとわからない」と思うほうだ。

でも、コミュニケーションについて様々なことを学んでいるうちに、「口で話すだけが理解しあうための手段ではない」と頭ではなくて体でわかってきはじめた。

アディには言葉で語りつくす以外の、もっと得意で本人にとって好ましいコミュニケーションの方法があるのではないか。最近は、そんなことを観察している。

不意に、娘・プーちゃんが「パパのところへいく」とスマホ片手にパパのところへ行った。しばらくして庭をみやると、プーちゃんはパパの膝の上に乗って自分の好きな動画をみていた。私はパソコンの前でこのブログを書いている。

木曜日の夜、明日は合同礼拝のある金曜日だ。遠くのモスクからコーランを読誦する声が聞こえ、月は冴えている。

完璧だー。

なんでだか、私はそう思った。

完璧だ。


アディと出会った頃、仕事の終わった夫と月を見ながらいろいろな話をした。

当時、アディは(外国人とは)お酒を飲むことがあり、お酒を飲んだときは上機嫌&饒舌になっていた。

それでも全体的に、言葉少なだったような気がする。いろいろなことを話さなくても、月明かりの下で並んで座っていたらそれでよかった。

こんなふうに月を見ながら、その日の嬉しいことも悲しいことも、これまでのこともこれからのことも、穏やかに話せる家庭をつくりたいな。

そう思って、将来のイメージ図として、月と数本の果樹とシンプルな家とネコと私たちの絵を描いた。

その絵が今、ここに現実として立ち上がっている。

道理で完璧さを感じるわけだ。

語らないアディをどれだけ理解するか。腕の見せ所だなと思った。


サポートはとってもありがたいです(ㅅ⁎ᵕᴗᵕ⁎) 2023年年末に家族で一時帰国をしようと考えています。2018年のロンボク地震以来、実に5年ぶり。日本の家族と再会するための旅の費用に充てさせていただきます。