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連載小説 マリアと呼ばれた子ども 第29回

僕とミッチー、マリアは幸子と羽田空港で落ち合うと、午前の便で阿蘇くまもと空港に到着した。軽く昼食をとると、僕はレンタカーを借りた。荷物を載せて乗り込むと、カーナビに愛さんに指定された住所を登録した。カーナビによると、所要時間は1時間半くらいだった。
空港を出てしばらく走ると、カーナビの指示で山道を上って行くよう案内された。ちょうど春分の日の直前とはいえ、本州の緑を見慣れた目には、阿蘇の木々の緑は非常に色濃く感じられた。何と言ったら良いのか、木々の生命力が強いというか、森や林全体から湧き上がるような、活き活きとしたエネルギーが感じられるのだ。
僕は思わず「ああ、緑が気持ち良いなぁ。ちょっと窓を開けても良いですか。」と、助手席に座っているミッチーと、後部座席に座っている幸子とマリアに聞いてから、窓を少し開けた。
窓から新鮮な空気が入り、木々の息吹のような瑞々しいエネルギーが感じられた。
「わぁ、気持ち良いな。生き返るようだ。」僕はまた呟いていた。
「もしかして九州に来られたのは初めてですか。」幸子がきいた。
「はい。あ、正確に言うと幼い頃、まだ物心がつく前に一度、博多まで家族で旅行をしたはずです。叔父が、父の弟が住んでいたのを家族で訪ねてきたもので。九州はそれ以来となります。」僕は答えた。
「そうでしたか。私は数年前に愛さんのお住まいでワークショップに参加したのが、初めてでした。関東周辺に比べるとこの辺りは緑が濃いというか、植物全体の生命力が強く感じられますよね。」
幸子も僕と同じように、強い生命力を感じていると知り、古代からこの辺り一帯に天孫降臨伝説があるのも納得がいくと思った。
緑の息吹を吸いながらのドライブは快適だった。1時間半かかる予定がどんどん短縮されていた。幸子がふと気がつくと、車はすでに愛さんの住まいの近くまで来ていた。そこからは幸子の道案内で、愛さんの住まいに無事到着することができた。
「私が初めてお邪魔したのは8月半ばでね、蝉の鳴き声が東京とまるで違っていて驚いたのよ。」荷物を車のトランクルームから下ろしながら幸子がマリアに言った。
「えー、蝉はどんな鳴き声だったの。」マリアはきいた。
「【ガシャガシャ、ガシャガシャ。ガシャガシャ、ガシャガシャ】って聞こえたの。私ったら、それを聞いて機械が鳴っているんだと思ったのよ、可笑しいでしょう。」
幸子の答えを聞いて「ふ、ふ、ふ。」マリアは思わず笑ってしまった。
愛さんの住まいは別荘の立ち並ぶ木立の中でも、ひときわ大きな建物だった。建物の周りに鬱蒼と茂る木々のせいか、玄関先は昼過ぎでも薄暗く感じられるほどだった。
幸子が呼び鈴を鳴らすと、「はーい。」という、少しのんびりした愛さんの返事が遠くから聞こえた。ゆっくり姿を現した愛さんは裏庭で庭仕事をしていたのか、手袋をはめ長靴を履いて、日除けの帽子と割烹着を着けていた。
「こんにちは。」マリアを先頭に僕たちは挨拶した。「ご無沙汰しております。」
「いらっしゃい。遠くから大変だったでしょう。お上りくださいね。こんな格好でごめんなさいね。昨日まで雨が続いていて、庭の手入れができなかったので、ついつい時間を忘れてしまって。」愛さんはおっとりした口調でそう言い、手袋と帽子を外すと、玄関のドアを開けた。どうやら鍵を掛けてなかったようだ。
幸子を先頭に僕たちは玄関から上がらせてもらった。すぐ目の先に山小屋風のリビングルームが広がっていた。天井に明かり取りがあるせいか、室内は思ったより明るい。大きな窓の向こうにデッキがあり、その先に阿蘇山の麓だろうか、山が見えている。愛さんはデッキから長靴を脱いでリビングルームに上がって来られた。
リビングルームの中央に薪ストーブがあり、そこから甘く香ばしい香りが立ち上っていた。
「長旅おつかれでしょう。さっきからケーキを焼いているので、召し上がってね。」愛さんは手早く割烹着を脱いで身支度を整えると、幸子を誘って湯呑み茶碗とケーキ皿などをてきぱき運んで、お茶の支度を整えてくれた。
「ご存知かもしれないけれど、熊本はお茶の名産地なのよ。緑茶を召し上がってね。マリアちゃんはココアが良いかしら。」愛さんは薪ストーブの上に沸いていた鉄瓶の湯を湯冷ましで丁寧に冷まして、煎茶を淹れてくれた。緑が濃い、香りの豊かな美味しいお茶だった。旅の疲れが吹き飛ぶようだった。
幸子が慣れた手つきで薪ストーブの下段からパウンドケーキを取り出すと、切り分けてくれた。
「この辺りでは平飼いの良い卵が普通にスーパーで手に入るのよ。有精卵なのよ。」愛さんがお国自慢するともなく、そう言った。
「わぁ、卵の黄身の臭いが無くて、美味しいです。」ミッチーがパウンドケーキを一口食べると呟いた。
「本当に、この卵は美味しいわ。この辺りでは有機野菜や果物も、普通にスーパーで手に入りますよね。」幸子が補った。


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