見出し画像

連載小説 マリアと呼ばれた子ども 第31回

僕たちが日帰り温泉から愛さんの住まいに帰ると、アンニカ親子も入浴を済ませていた。
温泉施設に向かう前に薪ストーブの上に掛けていた、大鍋に野菜スープが出来上がり、いつのまにか薪ストーブの下段にあるオーブンでは手作りパンが焼き上がっていた。
新鮮な野菜をたっぷり使ったサラダとともに、薄切りにしたハムやチーズが並べられた。平飼い卵の茹で卵も綺麗に櫛形に切られている。
「ご存知かもしれないけど、阿蘇は牧場も多いのよ。素朴な朝食みたいな夕ご飯ですが、ゆっくり召し上がれ。あ、そうそう。ハムやチーズが苦手な方は無理に召し上がらないでね。」愛さんは僕たちに優しく語り掛けた。
アンニカ親子が天の恵みに祈りを捧げていた。
「いただきます。」と言うか言わないかのうちに、子どもたちは焼きたてパンを手にして旺盛な食欲を見せている。
マリアも優しい味わいのスープをすすりながら、パンを頬張っていた。
大人のために、雑穀ご飯も炊き上がっていた。
「カレー粉をスープに入れると、カレースープになって雑穀ご飯も美味しく頂けますよ。」幸子は率先してカレー粉をスープに入れてみせた。
春分の日が近いけれど、高原の夜は冷え込む。焼きたてパンと新鮮な食材のスープを頂き、薪ストーブに身体の芯まで温められて、身も心も緩んで行った。
「みなさん、ようこそ阿蘇までおいでくださいました。この辺でみなさんを歓迎する意味を込めて弾かせていただきますね。」その声が聞こえると、一同は声の主を探した。
いつの間にか愛さんはタオライアーを膝の上に抱えて、食卓の向こう側の少し窪んだところに胡座をかいて座っていらした。
愛さんはおもむろに目を瞑り、ゆっくり呼吸を整えると、タオライアーの優しい響きが家全体に広がっていき、ありとあらゆるものを震わせた。その繊細で柔らかな振動に身を任せているうちに僕は、【ああ、すべてはなるようにしかならないのだ】という考えが浮かんで来た。
今抱えている文芸雑誌の連載のことや、年末までに書き上げたいと思っている長編小説の構想などが、取るに足りない小さな悩みに思えて来た。
【すべては神の計らいであり、人間がどうこうできるようなものではない。ただ宇宙の流れに乗って楽しめば良いのだ】
そう思うと、心身の緊張が緩み、手足がぽかぽかと暖かくなって来た。【随分と肩に力を入れて生きているな】と自分の姿が滑稽に見えた。
やがて呼吸もゆったりとして来た。
どのくらい時間が経ったのか、愛さんのタオライアーの響きが止み、静寂の音が聞こえた。ふーっと誰ともなく溜息をつくと、一斉にパチパチパチパチと拍手が鳴り響いた。
目を開けると、以前より人の顔や物がクッキリハッキリして見えた。明るく感じられるのだ。
「いつもながら、愛さんの演奏は魂に響く感じですね。そうだ、愛さん、良かったらタオライアーの演奏のコツを教えてください。」幸子は自然におねだりをしていた。
「そうね、一番大事なことは【無になる】ことかしら。呼吸を整えて無になると、この場を共有している方々の思いや雰囲気、エネルギーみたいなことが自然にわかるのよ。そうするとタオライアーは自然に鳴り始めるの。私が演奏しているのではなく、タオライアーが鳴るっていう感じなの。」
【そうだったのか】僕は思い当たるところがあった。
僕たちが以前、安曇野で参加したタオライアー製作ワークショップで、参加者たちがめいめい製作し終わったタオライアーを夢中になって掻き鳴らしていたとき、僕が気分が悪くなったのを思い出した。あれは参加者たちの意識が低くて、エゴの意識で自己陶酔しながらタオライアーを弾いていたせいだったのかもしれないと思った。
愛さんは話を続けた。
「タオライアーを弾いている時、私は自分の身体がパイプのようだと思う時があるんです。天の神様が私を通してタオライアーを弾いておられるような感じがするんです。だから、タオライアーの演奏は自己主張だったり誰かのためだったりではないのだと思います。」
タオライアーは別名、【ヒーリングライアー】と呼ばれるくらい、心身を癒すと言われているが、【誰かを癒そうと演奏するのではないのだ】と僕は知った。どうやら聞いている人が癒されるのは、ただの結果のようだ。
「愛さん、ありがとうございます。」幸子と異口同音にみんながお礼を言っていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?