見出し画像

コラム 実名を呼ばない文化


世間では夫婦別姓の問題が賑やかですが、ちょっと日本の氏名について改めて調べてみました。
これは別姓が良いか悪いかについての話ではありません。単なる成り立ちと歴史です。

まずは名(氏名の名という意味では無く、広義の意味の名であり名称の意)について。これは「他と識別する」「呼ばれる」事をもって実際に機能するものとの前提を押さえておきたいと思います。
この記事は「呼ばれ方」に着目しています。

氏姓に行く前に、狭義の意味での「名前」について、この記事に拘る部分を軽く記しておきます。いわゆる下の名と言うものです。

但し一般庶民に関しては、わたしにはわかっていません。ある程度の地位にあった人々について書いてみます。また、成り立ちという記事内容ですので、現代の話では無く、遠い歴史上の話である事をお断りしておきます。

実名の事をイミナと言います。
まずは男性ですが、諱には、生まれた時につく幼名と成人して与えられる名があります。
当然ですが、時代を遡る程幼名は現代に伝わっていない場合が多いです。
成人名は公になっていますが、実際にその名を呼ぶ事はしません。親や、地位的に明らかに上位の人によって呼ばれるくらいです。普通は通称で呼ばれていたようです。

女性について言えば、王族・皇族は諱として、幼名と成人名があったようですが(※参照)他はわかりません。
また、王族・皇族に関して言えば、成人名は現代に伝わっています。また同時に通称が伝わる人もいます。
それ以外の人で言えば、諱はあまり伝わっていません。
一般的に女性の場合、諱は呼ぶ呼ばない以前に、敢えて隠すものとされていたからです。
男性同様通称を持ったり、〇〇の娘と呼ばれたりしていました。

以上の事を押さえて、氏姓に入りたいと思います。

今わたし達が使っている氏姓と、元々の氏姓は違う意味のものでした。
後に苗字・名字が出てきます。ずっと時代が進み、形骸化した氏姓が廃止され、ご承知の通り言葉の意味として氏、姓は苗字、名字と同じになりました。統一された法的用語は「氏」らしいです。

そもそもの氏姓とは、部民制度という古代の統治制度を背景に求められた、これも制度でした。そして氏と姓もまったく別々の意味合いを持つものです。
またこの氏姓制度は、明治時代になって廃止されています。

まずは氏です。
始祖(実際はその氏を最初に名乗った人物)を同じくする血族と、それに付随する政治集団に付いた名です。

物部氏、葛城氏、蘇我氏、藤原氏等は、中央で活躍した集団の持ち氏として有名です。
平氏、源氏は武士集団として有名ですね。

また庶民についてですが、部民制とは超ややこしいので説明は省くとして、670年に制定された初の戸籍庚午年籍ができた時に、庶民(部の民)に着いていた部の名称(部姓)に基づき、氏として登録されています。

またこれは部姓から氏への変更に伴い、血族として父の氏を引き継ぐものとされたため、結婚の際にも変わりません。
夫〇〇氏のナニガシと妻〇〇氏のナニガシといった感じですね。
但し部の単位にそもそも地域性があったため、同氏同士の結婚も多かったのではないでしょうか。

次に姓です。一般的にカバネと読み、氏に付くものです。
当初は臣、君、連、造などがあり、役割を内包した体裁と理解できます。
後に朝臣、宿禰、臣、などハ種に変更されています。これは確実に序列です。
氏に対して付くものですので、蘇我臣そがのおみというように呼ばれました。
そして姓は、ざっくりと言えば地方豪族以上が持ったものと考えて差し支えないかと思います。
姓は部民制→公地公民→荘園制と、変化する支配構造が背景にあるので説明が複雑です。

やがて氏集団の中の、特定の人物とその近親者単位で改姓が行われるようになりました。
官位のように厳格では無いために、皇族の子孫に与えられる、真人を除く一番上の朝臣がどんどん増えていきました。

これが氏姓です。

ところが血族で氏を世襲していくために、同じ氏を名乗る者が増えていきます。区別がつきません。 
血縁的には遠くても、同氏同姓も増えてきます。

この辺りで、「最初にその氏が与えられた人と言う意味の始祖が同じだとしながらも、敵対の芽をも含んだゆるやかな政治的集団」になっていきました。

平安時代の宮中を想像してみてください。あっちにもこっちにも藤原さんがいます。
役職で呼ぶとしても、ひとつの役職の定員がひとりとは限りません。
例えばですが「藤原朝臣中納言様❤️!」と呼んで、三人が「俺?呼んだ?」と振り返るかも知れなかったわけです。

ならば氏姓に諱を付けて、とはなりませんでした。
上に書いたように、諱は親や明らかに上位の者が、子や明らかに下位の者に対してしか口にできなかったからです。
繰り返しになりますが、女性に至っては諱を伏せるのが在り方でした。
通称に役職名を付ける呼び方もあったでしょうが、同位程度の者同士や親しい間ならともかく、目上の人に対してはどうでしょう。

そこで出てきたのが、名字・苗字(意味は同じため、以後は名字と記載)です。

ですので始まりは公家衆です。 
一条、九条など、それぞれ屋敷のある場所で呼ばれるようになりました。失礼の無い識別が着きます。
それが定着したのが、名字の始まりです。氏姓はどんどん形骸化していきました。

一方で武士は所領をそれに当てました。
同時に氏姓の形骸化が更に進み、名字が定着するようになったのです。

武士の時代になって以降、父から継いだ領地を兄弟で分け合い、尚且つ広がっていきます。
すると兄弟で別の名字を名乗る事も可能で、種類も増えていきましたが、やがて家督は全て長男が継ぐようになり、ひとつの名字が家名として受け継がれるようになっていきました。

女性はどうやら氏を父から引き継いだ状態で、婚家の家名を受けたようです。儒教の縛りが余り無かった事が伺えます。
実際にそう呼ばれる機会があったかどうかは怪しいですが、認識の仕方としては夫婦別氏同名字となります。

よく名前がしられている北条政子ですが、そのような氏名では無く、後世の人がつけた呼び方です。

まず諱が知られていないため、父の名前から一文字取って仮に政子としただけです。
北条は氏では無く名字で、父である北条時政の氏姓は平朝臣。ですから政子と言われる人の氏はあくまでも平です。

また。夫の源頼朝の幼名、通称は伝わっていますが、名字を持ったかはさだかではありません。源氏の本流である河内源氏の嫡流であり、単に源氏と言えばこれを指したからです。

また将軍になって以降の呼び方は御所、将軍家、鎌倉殿で事足りたはずです。
ですので正室である彼女は御台所と呼ばれたのではないでしょうか。頼朝が将軍になる前は源氏の奥方とか佐殿(頼朝の通称)の奥方、頼朝の死後は尼御台といったところでしょうか。

そして元は北条の一の娘と言った所かも知れません。
頼朝の娘で悲劇の姫として知られる大姫の「大姫」は、もちろん名前ではありません。
大姫とは、ある程度身分のある人の長女を示す通称です。

〇諱で呼ばずに別途通称を持つ。 
〇氏は父方の血族で引き継ぐために結婚しても変わらない。
〇名字は家名であり、代々これを家族で継承する

こんなところが特徴でしょうか。
氏は血族を基本にした個人に付き、名字は家族についているという区別も成り立ちます。 
名字ができてから女性は、結婚すると〇〇(家名)の奥方というような呼ばれ方になったように思います。
諱を隠すのですから、呼ばれ方が相応しければそれで良いという事なのでしょう。

時代が進むと更に複雑になり、位も正式名称に加わります。

因みにふたりの長い正式名称を書いてみます。

源朝臣徳川三河守次郎三郎家康

平朝臣織田上総介三郎信長

守や介は位に相当し、三郎や次郎は通称です。 
これでだれそれと識別できない事態など絶対におきませんが……

因みに江戸時代庶民は名字が無かったとは、正確には間違いで、名乗れなかっただけです。そこで元々の名字を屋号にしたりしました。
浮野屋とか喜多川屋とかでしょうか←

現在氏姓制度は廃止されています。かつての部姓から氏に代わったものをいつ頃まで庶民が受け継いだのかは、わたしにはわかりません。また氏の形骸化に伴い、庶民がいつ頃新たな名字を持ったかもわかりません。
氏をそのまま名字にしたり、あるいはあらたに領主から賜ったりと、徐々に氏から名字へと変化していったのでしょう。明治になってから名字を持たない家に対しては、新たにつけるように定められたようです。

今わたし達が持つ氏名の形は、明治、全国一律の戸籍制度が確立してできたと言うことになります。


*わたしの拙いまとめです。間違った部分があったら申し訳ありません。

※書紀には幼名と記載されている場合があるが、それは養育を担当した氏族のウヂナをそのまま使っているか、由来するものなので、生まれた時につく幼名では不自然であるとする学説に従った。


#コラム #氏姓制度 #名字 #苗字

スキもコメントもサポートも、いただけたら素直に嬉しいです♡