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 達者でいるならば、もう90に手が届くと言ってもいい。
 仮に彼女のことをYoko Haginoと記載しよう。

 洋子は愛したイギリス人の夫と死別した後も、自由闊達にロンドンで暮らしていた。確かに夫は充分な遺産を残した。けれど彼女自身も日本人旅行客のガイドとして、生活に潤いを与えるための金を稼いでいた。
 洋子の故郷は関西で、その日本語は生粋の関西弁だった。気取らない性格の彼女は、若者を引き連れて気取った場所へ出かけて行くのが常。それが若さの秘訣だった。わたしが知り合った当時、確か57歳だった洋子。今のわたしの年齢だ。

 高級カジノで優雅にカードゲームを楽しむ。カジノクラブの会員証をいったいどれくらい持っていただろうか。こ洒落た冗談で相手を煙にまき、後ろを向いて舌を出す洋子。買い物はいつだってボンドストリートだ。
 本当に毎日を楽しみ、ロンドンの街を愛していた。

 何年もの月日が流れ、それは自由闊達な洋子にも『老い』という現実を突きつける。ある時から、ぴったりと周囲を遮断してしまった。
 思うようにならなくなった自分の身体を、いや、例えそれが単なる外見に過ぎなかったとしても、人前に出るのが嫌なのだろうと、交流のあった人達は小さく首をふる。わたしの夫が二度目の赴任をした時も、結局連絡がつかなかったと話していた。

 他の誰かが知っていることなのかどうか…… 当時彼女はわたしにぽつりと言ったことがあった。

「いつかは日本に帰りたい」

 その時は意外に思った。これだけイギリスでの生活を楽しんでいる洋子が、日本はせこせこしていて性に合わないと言っていた洋子が、微かの本音を見せたからだ。
 そうなのかも知れない。どんなに素敵な生活を送っていても、いつかは…… と故国を偲ぶものなのかも知れない。そしてそれを大っぴらにはせずに、胸に秘めていた。

 自分の孫だと思わせてや、とまだ赤ん坊だったわたしの息子を抱きながら呟いた洋子。彼女に子供はいなかった。

 元気でいるのか、それとも…… 
 彼女はもう90に手が届く。

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