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何処を見ているか
そもそもわたしの見方が偏屈なのかも知れない。それをまず前置きとしておこう。
何の話か。歴史だ。
その当時の人がどんな考え方をしたのか。そこを探りながら歴史を見るのが好きなのだ。だから比較的想像しやすい日本史で遊んでばかりいる。
神話部に時々投稿をさせて貰っているが、よく考えてみると、伝承そのものよりも掲げられた神話を人々がどう扱ってきたかについて考えている事が多いように思う。あるいは何がそこに反映されているか…… を、考えてみたり。
誰かが書いたものは、それだけで純粋に楽しむ事ができる。
でも自分が書くとなると、上に書いたような事が気持ちの中に出てくる。
窮屈だよね…… 好みだから仕方ないか。
ただ、こうやって進めていくと、流れを押さえる事になるので、推理小説さながら探偵のカンが働いたりもする。←
例えばだ、「秘すれば花」の冒頭。
わたしは「ゆくかわのながれは」を置いた。
ただ、引用するには何か無ければおかしい。これを使いたいと浮かんだ時に、同時にもしかしたら?と思った。
ネット検索ではあるが、「世阿弥 方丈記」で調べたらビンゴ!
世阿弥自身が伝書の中で引用していた。
今とりかかっているものにも、当たりをつけると案の定といった事が出てくる。
本当に短い「秘すれば花」
折に触れ世阿弥について調べてきていた。でも晩年、宿神に相対し、心中を独白するといった短いものを書く事で精一杯だった。
妄想で書いていてもこれなのだ。
こんな言葉がある。
「慮る おもんばかる」
人の世の中では、歴史にしろ神話にしろ、それは社会の中で、人間が作り上げてきたものだ。
どう扱い、どう対峙してきたかを考えてしまえば、そこに生き、やがて渦の中に消えた「人間」を感じないわけにはいかない。
だからこそ、神話と詩は切り離せないと思う。
渦の中に消えた人の、長い長い歌を感じるからだ。
ダラダラと書いてみた。
これでなかなか投稿に結びつかない言い訳を終わりにしたいと思う←
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