見出し画像

黄泉の国と根の国


○神話部 コラム

神話はある一定の地域の、時代時代の社会通念が折り重なって語られるものだろう。
当然辻褄の合わない話の宝庫であるのが当たり前となる。

日本神話は記紀によって纏められている。そめためはみ出している話の多くは、取り上げられないか(古事記)或いはいわゆる一書曰くとして(日本書紀)記載されている。
伝承として広くあるいは地方ごと今に残る話が、記紀には見当たらないといった例はいくつも存在するようだ。
ただ同時に、排除でも一書曰くでも無く、矛盾を孕んだまま組み込まれているものもある。

死後の世界もそのひとつなのだ。

日本神話には黄泉の国と根の国と言う死後の世界観がある。
イザナミは死んで黄泉の国にいた。追いかけたイザナキは、腐り変わり果てたイザナミの姿に慄き黄泉の国に蓋をする。

一方でスサノオは根の国にいる母(イザナミ)に会いに行きたいのだと言う。
(書記では根の国、古事記では根之堅洲國と表記。概念は同じものである。ここでは馴染みのある根の国を使う)

黄泉の国と根の国は明らかに異なる様相の死後の世界だ。

黄泉の国は肉体が朽ち果てていく様子と、出て来られないように重石を置き遮断するといった非常にシンプルで、古い時代からある通念が語られ、人間はいずれ死に(イザナミ)新たな命がまた生まれる(イザナキ)と言う断固とした不易がそこで説明されている。

根の国は、もっと時代が進んだ後の思想が語られているように感じる。
「還る」と言う思想だ。(と、思う)
人は根の国より生まれ出で、根の国に還る。そして再生にまで踏み込んでいると解釈する説もある。
こちらは決して闇では無い場所であり、新しい時代の死生観が存在すると考えられる。

また常世の国と言う、神の手で永遠の命が与えられる理想郷についても語られる。死後の世界にあると読み取れるようで、人の願望なのだろう。
これは誰でもが必ず到達する死後の世界では無い。選ばれた者や何がしかの行動を取った者が到達できる世界だ。

あくまでも個人的感覚に過ぎないが、選ばれた人間に与えられる恩恵と言った思想は、ある程度の支配体制が構築された後に出てくるように感じる。
権力の力強い根拠の提示や、被支配層への心理的支持を掴む事に加勢しうると思うからだ。
こちらも比較的新しい時代に成立したのではないだろうか。
(今から1500年位昔を新しい時代と呼ぶのもアレだが)

常世の国とは海の先にあると言う。沖縄や奄美の神話に出てくるニライカナイに近い感じだろうか。



今知る神話はある一時代にできたものでは無い筈だ。(と、言われている)
社会通念に関して時代と言う意味の時間軸と、地域間の伝播が折り重なっている。

日本神話で言えば、個別に存在したであろう話を拾い集め、物語の中での話の進行に沿った、縦に広がり伸びる話として成立させ、尚且つ纏め上げられたものと言える。(と、言われている)

ある特定の時代に特定の誰かが一から一気に書いた物語では無いのだ。(ここは断言)
元々は主に歌われていたのではないか?という学説もあるが、神話の祖となる話が歌われたり語られたりし始めてから、一連の神話として纏まった話になるまでに千年以上の時間が流れていると言われても驚かない。

黄泉の国と根の国は、双方その入り口を黄泉比良坂と言っている記載が見つかる事から、一部が繋がっているに違いないと解釈するむきもあるが、大祓の祝詞において根の国は海の彼方または海の底にある国としている。
むしろ場所という意味においては常世の国に近いのだ。
また地下にある黄泉の国に関連した場所を古事記では出雲、書記では熊野としている点も書き添えておきたい。

語られた時代による思想の積み重なりと言う視点を忘れると、この矛盾に対する無理な後付け解釈に終始しかねない気がする。
記紀は国家成立の道のりと、王権の正当性を貫く意義を持って纏められている。一貫していなければいけないのはこの部分だった筈だ。
一方で死生観のように、昔から語り継がれた思想等は、その変容をも包括している事こそが、神話を神話たらしめているように感じられてならない。

神話はそのままに、こじつけなくていいと思うがどうだろうか?

地域間の伝播については、似たような話があるとピンと来たりもするが、矛盾の覆い隠しとしか思えない部分があったとしても、時代による思想や通念が混ざり合った末の辻褄合わせも理由のひとつだと考えると、苦労したんだろうなと、労いたくもなる。

神話は面白い。
最後はどうしてもそこに行き着く。



こけしのくせに固い口調でスマン

#コラム #mymyth   #note神話部 #こけしふう

スキもコメントもサポートも、いただけたら素直に嬉しいです♡