苦悩を超えるもの

上京して丸5年半が経過したとある猛暑日の俺が、某洋食屋に訪問した時の出来事。

かつて勤めていた会社の先輩に、「この洋食屋はマジで美味いから行くべし」と教えてもらい、Googleマップにピンを立てたまま5年経過していたお店だ。

マップ開く度に目に入るし近々絶対行こ〜!と思いつつ行けてないお店、結構あるよね。

結論から言うと、また行きたいほどの美味しさと雰囲気と愛すべき店員さんのいるお店ではあったのだけど、後述する話の内容的にお店の名前は敢えて伏せておきます。また、発生する事件の首謀者の名前も濁します。


そのお店は、5年半の中で多分1度も降りたことの無い駅から徒歩10分ほどの場所にあった。
店構えからも老舗感が滲み出ており、またほんのりと緑の茂ったその佇まいに好感を持った。

ランチタイムには程よく混雑すると前情報を得ていたため、開店とほぼ同時の入店を目指した。結果、並ばずに1番乗りで入店することができた。

ご夫婦で経営しているお店であり、ホールは奥様が担当されていた。入店すると同時に「お好きな席へ」と案内いただいた。全て広めの席だったため、1人での着席がほんのり後ろめたく感じつつも、真ん中あたりのテーブル席へ着席した。店内はあまり広くないが、こじんまりとしたその雰囲気がとても好きだなと感じた。壁にはメニュー表が飾られており、店内を見渡しながら何を食べようかウキウキしていた。

すると、シェフが現れて優しい声で「このメニュー、人気ですよ」と教えてくれた。内容を伺ったところ、数あるランチメニューの中でもセット内容と価格にお得感を感じた。だがしかし、俺の中では既に今日頼もうと考えていたものがあったため、「お得感よりもまず今日は食べたかったものを頼むぞ…」と心を鬼にして注文した。


注文を終えてホッとした頃に、1人のおじさん客がやってきた。どうやら常連のようだが口数は少なく、俺の後ろの席に着席した。

他にお客さんがいるとなると、あまり店内をキョロキョロしててはいけないような気がしたので、大人しく自分のテーブルに目を落としたその時に事件は起きた。


Pだ。
唐突にPが現れた。


俺はすっかり油断していたため、心の中で激しく動揺した。
こんなところで出くわすとは考えもしなかった。

あとから考えれば、まあ確かに東京だし夏だし洋食屋だし老舗だし登場してもままおかしくは無いよなと思った。

奴は俺が見ていることなどつゆ知らず、小柄な成で大胆に右往左往していた。
もう目が離せなくなってしまった。

と、そこへ前菜を運ぶ奥様が登場した。
とっさに助けを求めようと考えたが、俺の脳内は緊急会議を始めた。

「いやさ、ここ東京だし、Pごときでいちいち騒ぐのってどうなんよまじで」

「とはいえ苦手だし、気持ち悪いし、、」

「あ、見失った、しまった、ここにいますって言えないやつじゃん」

「仮にPいますって言ったところで後ろにお客さんもいるし変な空気になるの嫌だな、、」

「自分でなんとかするしかないってことなのか、、」

ザワザワザワ…

俺の頭の中はこの上なくザワついていた。


「どうしよう、席変えさせてもらおうかな」
あれこれと考え抜いた結果、この案でいくことにした。

程なくして、1品目が運ばれてきたので、奥様に席を移動する旨を伝えると快く対応してくださった。
俺はそそくさと近くの別の席に移動させてもらった。

ふうーっと安心して、運ばれてきた1品目を堪能し始めた。
美味い、美味すぎる。
ふた口ほど食べたところで、2品目がやってきた。
これだー!これが食べたかったのだ!
不安から解放され、2品目の皿を手に取って香りを嗅いだ。
幸せの芳香。
洋食屋の歴史が全てここに詰まっているのだ…
などと脳内饒舌を発揮していた矢先に、


またもPが現れた。


多分さっきと同じ奴っぽい。
テーブルの向かいにある椅子の背もたれの上。
そしてまたすぐに姿を晦ました。


「え。俺なんか悪いことしたんか、、、?」


俺は唐突に不安な気持ちになり、我が身を振り返った。
この猛暑の季節、多汗な俺の体臭か何かに問題があるのだろうか。
自分では気づいていないが、服などから恐ろしい異臭を放っているのだろうか。
過去に会社で、家にPが現れたと話した時に部屋が汚いと上司から冗談交じりに言われたことを今さら思い出してムカムカしてきた。


ハッと我に返り、目の前のご馳走に視線を戻した。
キラキラと輝く、ずっと食べたいと思っていたご馳走たち。
君たちにも、このお店にも、何も罪はないのだ。
俺はこの店を愛したいと、足を踏み入れたその時から全身で感じた。
だからこそ何事もなく今日の日を過ごしたい。
何かを咎める気持ちなど1ミリも湧いてこなかった。


そして至る結論、早く食べてこの場を去ろう。

そうして、俺は一心不乱にご馳走たちを食べ始めた。
何も考えるな、目の前のご馳走たちだけを感じろ。
本当に美味い。
美味しいよ。
美味しい。
ああ、ただもう少しだけ、ゆっくりと食べたかった。
その本心に気付くと、俺は少しだけ泣いていた。


半分ほど平らげたところに、シェフが現れた。
「これ、よかったら」
笑顔で差し出してくださったのは、小皿に盛られた俺の大好きなとあるフルーツだった。

感激すぎた。
こんなに優しいお店があるだろうか。

引きこもりがちで凝り固まっていた俺の日々をそっと包み込んでくれるような優しさ。
胸が熱くなった。

だが今は、一刻も早く食べ進めなければ。
俺はまた、一心不乱に食べ始めた。
ご馳走たちをこんなにも急いで食べなければならないことを心の底から詫びた。


そして無事に完食し、ひと息つく間も惜しんでお会計を済ませた。

「ご馳走様でした」
この言葉にたくさんの感謝を込めた。

ありがとう、シェフ。
ありがとう、奥様。

何としても俺はまたここに来ます。
決して明るい事件ではなかったけれど、少しでも前向きな思い出になるよう、ここにしたためます。

この洋食屋と俺に、幸あれ。

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