尾形百之助にとっての愛とは何か

最初に

前回の投稿で尾形は光=祝福=愛を与えられることで自分の善性を取り戻し役目を果たした、と書きました。

では次に尾形にとっての愛とはどんなものだったのかを考えてみます。
この問いのヒントは「勇作だけが俺を愛してくれたから」という台詞です。

尾形は勇作にしか愛されなかったのか?

本編を読むと尾形は本当に勇作にしか愛されなかったのか?母は?祖父母は?という疑問が湧きます。実際「勇作だけが俺を愛してくれた」のコマでは勇作はバッテンを作ってそんなことはない、ということを示唆しています。(このバッテンはもう1つ意味があるように思いましたが、それについては別途まとめます。)

しかし尾形は勇作の愛しか愛として認識できませんでした。尾形は何を愛と捉えていたのでしょうか?

2つの可能性

結論から言うと、尾形が思う愛=勇作がくれた愛について以下の2つの可能性を考えました。

  1. “見て”くれること

  2. アガペー(無償の愛)

それぞれについて、勇作がどのようにその愛を体現していたのかを示します。

ここでもう1つ重要なのは、勇作が尾形をどう思っていたのかということです。これは勇作の台詞から分かります。
「兄様はけしてそんな人じゃない。きっと分かる日がきます。人を殺して罪悪感を微塵も感じない人間がこの世にいて良いはずがないのです。」
この台詞を念頭に置いて進みます。

①“見て”くれること

作中では幼少尾形の回想、あるいは幼少尾形の姿での尾形脳内の独白のシーンが存在します。幼少尾形はたびたび「見て、見て」と訴えています。子どもの姿で表現されるこの欲求は、尾形の根源的な望みを表しています。
尾形にとっては“愛されている”という実感を得るには、まず自分を“見て”もらうことが必要でした。
勇作は尾形にこう言います。
「兄様はそんな(罪悪感を感じない)人じゃない」
これは310話を踏まえると尾形の本質をついており、勇作は尾形を理解していることが分かります。
相手を理解するには、相手を良く“見る”必要があります。この言葉によって尾形は(少なくとも無意識下では)自分が勇作に理解された=愛されていることに気付いたでしょう。

②アガペー(無償の愛)

これまたキリスト教的概念を使って考えます。キリスト教では4つの愛が登場しますが、そのうちの1つがアガペー(無償の愛)です。

アガペーとはこのような愛を指します。
・見返りを求めない愛
・どんな相手(好ましくない相手)にも与えられる愛
・自己犠牲的な愛

「人を殺して罪悪感を微塵も感じない人間がこの世にいて良いはずがないのです。」という台詞は、(尾形だけでなく)どんな相手にも与えられる、見返りのない愛です。更に勇作は、武器を持たず旗を持ち前線に突撃する自己犠牲の精神があります。
これらの勇作の言動から、勇作が尾形に与えた愛はアガペーだと言えるでしょう。

アガペーは親から子への無償の愛に代表されます。
しかし、トメ(尾形の母)は「お父っつぁまみたいな立派な将校さんになりなさいね」と子どもの尾形に語りかけています。トメは失った花沢中将の代わりを尾形に求めていたのかもしれません。それは見返りを求める愛ですから、アガペーではありませんでした。
尾形は母から貰い損ねたアガペーを求めていたのです。

鶴見中尉の愛

ゴールデンカムイで愛といえば鶴見中尉です。尾形も鶴見中尉の「愛です」のメンバーとして描写されています。
鶴見中尉は月島や鯉登にそうしたように、尾形にも何らかの愛を与えようとしたはずです。ここでは先程の尾形の愛の2つの可能性に沿って、鶴見中尉が与えようとした愛について考えてみます。

①愛=“見て”くれることの場合

304話では尾形が自分の目的(無価値の証明)を鶴見中尉に言い当てられて、「そのとおりです!!やっぱり全部分かってくれてたんですねぇ」喜んでいる様子が描写されています。
俺のことを分かってくれていた=俺を愛してくれている、と尾形は捉えているのです。
しかし、尾形の無価値の証明という目的は、尾形の真の目的ではありません。俺のことを分かってくれていた=俺を愛してくれている、というのは錯覚です。
鶴見中尉も恐らくこれが錯覚であることを理解していますが、かと言って勇作のように本物の愛を与えることはできません。尾形が罪悪感で人を殺せなくなったり、罪悪感に押し潰されて死んでしまっては意味がないからです。

②愛=アガペーの場合

鶴見中尉の「愛です」メンバーは4人です。そしてキリスト教における愛も4つです。尾形の愛がアガペーであることを踏まえると、メンバーはそれぞれこのように当てはめられそうです。

・宇佐美:エロス(性愛、恋愛)
・月島:フィリア(隣人愛、友愛)
・鯉登:ストルゲー(家族愛)
・尾形:アガペー(無償の愛)

並べてみると、鶴見中尉が初期の段階から尾形の懐柔に失敗している(匙を投げている)のも納得できます。
鶴見中尉は見返りを求めて愛を利用していますが、そのような愛はアガペーには成り得ないからです。

まとめ

尾形にとっての愛とは何か?という問いに対して、①愛=見てくれること ②愛=アガペー という2つの可能性について整理しました。
どちらが正解という訳ではなく、どちらの意味でもあるのだろうなと思っています。

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