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不登校を語る際って落とし穴がいっぱいあると思う・・・少し整理してみた。

不登校を語るのはほんとに難しい・・・。複雑な現実があるし、ちょっと間違ったらはまってしまう落とし穴も多いし、議論のプロセスで誰かが傷ついてしまうリスクがとても高いから、心理的安全性が担保されないと建設的な議論・対話は進まない。なので、「エンタク」でなら深められるかな・・・と思って、試み始めているところ。(こういう話をしたい人はぜひ入ってきてください)

落とし穴①

「不登校は不幸じゃない」だけを発信すると現実にあるしんどさが覆い隠されてしまうし、支援が要らないという誤解を生む部分がある。(社会的スティグマが強いので、ポジティブ発信したい気持ちはめっちゃ分かるけど、それだけ発信するのは現状とズレるし、危うさもある)

落とし穴②

一方、不登校に伴うしんどさや、不登校の結果、社会資源と切れてしまうことがあるという事実を発信することで「かわいそう」扱いが強化されてしまう面もある。またそれが一面的に捉えられ、不登校状態を脱すること=学校復帰が支援のゴールに設定されてしまうことがある。(スティグマが強まると本人や保護者がよりしんどいし、学校復帰がゴール設定されることで苦しみが増すケースも多い)

落とし穴③

「不登校はダメなことじゃない」を主張するときに「不登校でも東大にいけた」「元不登校児が起業して年商**万」というような、競争主義/経済主義的な論を使ってしまいがちである(それでは、生きづらい社会をほぐすことにならない。むしろ強化されてしまう)

落とし穴④

多様な学び拡大路線(≒学校外の選択肢づくり)vs公教育への投資(≒学校の福祉的再編)が対立させられがち。しかも、多様な学び拡大路線は"新自由主義"に絡め取られやすく(or結びつけて批判されやすく)、公教育への投資路線は"家父長主義的保守主義"に絡め取られやすい(or結びつけて批判されやすい)。

落とし穴は他にもある気がするが...。不登校をめぐる議論は、少なくともこれらの落とし穴を丁寧に避けながら、進めていく必要があると思っている。

「子どもの権利」「ウェルビーイング」「デモクラシー」等を、土台となる価値基準として明確に置いて、議論しなきゃ間違った結果を招きかねない。なので、根本的な価値観をいろんなステークホルダーの人たちと確認・共有していきたい、というのが私の現段階での結論かな…。

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