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ミニマルミュージックはどこへ行く?

 今日は私のお気に入り現代音楽を Youtube で何曲か紹介したい。まずは Youtube で演奏を見ることのできる中では一番のお気に入り。

"Cheating, Lying, Stealing"
作曲:David Lang
演奏:Bang on a Can All-Stars
   Ashley Bathgate : cello
   Vicky Chow : piano
   Ken Thomson : bass clarinet
   David Cousin : marimba
   Robert Black and Mark Stewart : triangles and junk metal wheels

David Lang デイヴィッド・ラング (1957〜) -- 現在幅広く活躍している、人気の高いアメリカの現代音楽作曲家。ポストミニマルミュージックに属する。2008年にはピューリッツァー賞を、2010年にはグラミー賞を受賞。また、アカデミー賞にノミネートされたこともある。

Bang on a Can -- 1987年、芸術監督である3人の現代音楽家 Julia Wolfe, David Lang, Michael Gordon によって設立された、ニューヨークに拠点を置く、現代音楽の活動家団体。

 David Lang はこの曲のスコアの冒頭に「ominous funk(不吉なファンク調で)」と指示書きをしているらしい。まさに ominous funk。心の裏側をぞわぞわさせるような不穏なビートの効いた変拍子、微かに狂気めいたな調子っぱずれの頓珍漢な音。絶えず底を流れる、深い暗い、豊かで美しく、悲しくも不気味で不吉なチェロの音色。痙攣的で分裂的で、いつ発狂するかも知れぬ衝動をぎりぎりと抑えたかのような緊張を孕んだピアノ。暗い森にひそむ悪霊か怪物のような、おどろおどろしく禍々しいバスクラリネットの呪詛の低い唸り。幻覚が辺りを舞い踊り眩暈をおこしそうになるような催眠的なマリンバの音。そういったものがその時々、大きなうねりを作りながら現れては消え、そして突如始まる小太鼓の小刻みなリズム。それらのものがすべて一体となり不吉なカタルシスを目指すオーメンとなり高まっていく。これはまさしく現代の呪術音楽と言えるのではないか。

 ミニマルミュージックといえば言わずと知れた Steve Reich(スティーブ・ライヒ)。1970年代後半、彼が "Music for 18 musicians(18人の音楽家のための音楽)" をひっさげて音楽シーンに登場した時には、反復の織りなす、そのあまりに美しく鮮烈な音風景に、現代音楽ファンだけでなく、非常に多くの幅広い音楽マニアが衝撃を受けた。おそらくストラヴィンスキーの「春の祭典」と並び、20世紀が生み出した音楽の最高峰の一つと言ってもまったく過言ではないと思う。

 次の Youtube は比較的最近、2011年シカゴ現代美術館で eighth blackbird を中心とした音楽家たちにより演奏された"Music for 18 musicians"。
 eighth blackbird(日本では「エイト・ブラックバード」の名で流通)はシカゴを中心に活動する現代音楽の演奏家集団。これまで10枚以上もの評価の高いアルバムを発表しており、このうち4作において、最優秀室内楽パフォーマンス賞などのグラミー賞を受賞している。日本では知名度が非常に低く、もっと評価されてもよいと思っている。

 このスティーブ・ライヒの "Music for 18 musicians" を聞くと、先ほどのデイヴィッド・ラングの "Cheating, Lying, Stealing" が ポスト・ミニマルミュージックであるという、その「ポスト」たる所以が、現代音楽やミニマルミュージックをあまり知らない方でもなんとなくお分かりに頂けるのではないだろうかと思う。

 ライヒの音楽と出会った頃の時代は、そしてその時代の私は、大きな物語を失ってしまっていたとは言え、まだまだ現在よりも愚かしくも純粋でひたむきな精神をどこか残していたように思う。それは私が若かったということもあるだろう。何を見ても何を聞いても新鮮に思えるみずみずしい感受性が私にもあったということである。それが今はどうだ。精神の目はかすみ、心の耳も遠くなり、そして脳内にもカビが生え、対象物をそのままに鮮やかに捉えることができなくなり、何を見ても何を聞いても、あーまたか、と既視感を覚えてしまう。しかし、その既視感は老いぼれた精神のためだけではないだろう。何を見ても何を聞いても感じる、この砂を噛むようなざらざらとした感触は。

 現代は、甘ったるく空々しいか、空疎で禍々しい言葉だけが、どこもかしこも覆い尽くす、模倣の、まがい物の時代である。人々は、そのまがい物で空虚な自分を見たし、ごまかし、ひたすら充実した自分らしさを求めようとする。または、それが正しい姿であるかのように振る舞う。そうしなければ自分を支えられないのである。(私も含め、この note の多くのクリエイターのように、とまでは言わないが‥。)

 かつては酔いしれた、ライヒの音楽の美しく陶酔的な自己欺瞞性。それに気付き、やりきれなさを覚えながらも、何かに依存し自分をごまかし、充実した振りをし、または充実していると自ら錯覚し、意味のない毎日を何とかやり過ごさねばならない「現代」の私たちの在り様を描いた「現代」呪術音楽、それが、まさに、ラングのこの "Cheating, Lying, Stealing「欺き、嘘、盗み」" なのである。

(なんてね、適当な私のでたらめですからね。)

  あらゆる詐欺のうちで第一の、最悪のものは
  自己欺瞞である。(ベイリー「フェスタス」)
  
  力足らざれば偽り、
  知足らざれば欺き、
  財足らざれば盗む。(荘子)

 さて、戯れ言はこのくらいにして、「砂を噛むような味気なさ」度がさらに行っちゃってる次のやつを紹介。

Arnold Dreyblatt アーノルド・ドレイブラット。1953年ニューヨーク生まれ。1970年代後半にキャリアをスタートさせたニューヨークのミニマル作曲家の第二世代にあたる。1984年以降活動拠点をドイツのベルリンに移し、その活動は音楽家としの作曲演奏活動のみならず、インスタレーション、パフォーマンス、メディアアートなど広範囲に及び、その作品はヨーロッパで幅広く展示・上演されている。また、CDやレコードも多数出ており、そのどれも(その筋では)一様に評価が高い。

 次の Youtube の演奏は Arnold Dreyblatt の中では「一般の方」でも比較的聴きやすい一曲で、2019年6月11日 N.Y. マーキンホールでのライブ。

演奏は先ほどの Bang on a Can All-Stars
   Mark Stewart : guitar
   Mariel Roberts : cello
   Vicky Chow : piano
   Ken Thomson : reeds
   David Cousin : percussion
   Robert Black : bass

 味気ないどころか下手な学生バンドのロック演奏よりも下手で退屈と思ったあなた。非常に正直でよろしい。でも、こんなものはまだまだましな方で、彼の他の作品の中には、単調なドラムの音に乗せて延々とベースの弦に弓を叩きつけるものや、これまでギターを触ったことのない者がたどたどしく不器用に弾くような一音一音バラバラの乾いたギターの音を、これも単調なドラムの音に被せただけのようなものまである。ただ全体的に共通するのは単調とはいえ力強いドラムの音に乗せているものが多く、そのせいで「ベルリン発!ロック魂溢れるミニマル・ミュージックの巨星アーノルド・ドレイブラット」なんて言われてしまうのだが、「一般の方」からすれば、ロック魂?どこが?って感じかもしれない。ハイセンスなポップを聴き慣れた耳の肥えた者にはとうてい聞くに耐えない代物であろう。(それに加えて、どこが最初に使ったのか、いろんなCDショップが判で押したように彼のことを「NY実験音楽/ミニマル・ミュージック界の風雲児」と紹介してるのにも笑けてしまう。)

 しかしよく聞いてみると、いや、よく聞かなくとも、下手などとはまったく違うことがすぐに分かる。当たり前である。ほとんど全員が元々はクラシック畑。エリート音大を卒業し、幾多のコンクールで賞を取り、国際的に幅広く活躍するミュージシャンばかり。この "Escalator" は長さが18分ほどしかないので、ぜひ時間のある時にじっくりと聞き、その音に完全に身を委ねてみてほしい。最初は、メロディなど何もなく単に同じ音とリズムの繰り返しだけの、果てしなく単調で味気なく退屈な音楽に聞こえるかもしれない。だが、何十小節かごとにメインの楽器やその音の高低、ドラムのリズムなどがわずかに変化していくのに気づく。その変化はごく僅かなものにすぎない。しかし際限のない単調な反復ゆえに逆に、そのわずかな変化がそのうち劇的な大きな変化となって意識に立ち現れてくる。そして、繰り返し押し寄せる波に足を浸しながら裸足で砂浜に立ち、その足をくすぐる感覚と繰り返す波音だけに身を委ねていると、やがてはその波が宇宙の大きなうねりとなり、知らぬうちにこのちっぽけで偏屈な魂が悠久の宇宙に溶け込んだような気分になるように、曲が突然終わった時、あなたは時間のない大きな恍惚とした至福の中にいるのに気づく。それを人は永遠と言うのかも知れない。

 まぁ、多少大袈裟な言い方になってしまったが、ほぼ1時間近くもあるスティーブ・ライヒの「18人の音楽家たちのための音楽」を最後まで聴き通した時には、確かにそのような感覚が得られる。ライヒと比べると、アーノルド・ドレイブラットは、彼には申し訳ないが、やはり格が違う。だが私は、最近はこの「Escalator」の方がライヒの「18人〜」よりも気に入っている。それは、妙な言い方だが、ライヒの「18人の音楽家たちのための音楽」が、やはり他の何にも例えようもないほど美しいからである。芸術的に文句のつけようもないほど最高に美しく洗練された抒情性を帯びているからである。本当にこれは20世紀の音楽が到達した頂点の一つであると思う。であれば、なぜこの「Escalator」なのか?それは何度も言うようだが「18人の音楽家たちのための音楽」が美しいからであり、逆に言えば「Escalator」が美しくないからである。どういうこと?

 ミニマル・ミュージックとは、いやミニマル・ミュージックにもいろいろあるだろうが、特にライヒが当初目指したものは、クラッピング・ミュージックやピアノ・フェイズでも分かるように、最初から壮大な物語や世界観、または道具立てを用意せず、そういったものをいっさい廃し、本当に文字通り「ミニマル」で最小限の音素材と変化の反復だけから出発し、それまでの手垢にまみれた抒情性とはまったく異なる音楽の地平を切り拓こうということだったはずだ。

"Piano Phase" played by Tinnitus Piano Duo: Tine Allegaert & Lukas Huisman

 だがライヒは20世紀最高の芸術家の一人だった。その精神の在りようが20世紀的に最高に美しかったのだ。どれほどミニマルな素材から始めようと、その精神が作り上げるものは、その精神の傾向性に引っ張られる。その精神が偉大であればあるほど尚更である。音素材やその変化をどれほどミニマルに抑えようと、その選択のわずかな違いはそれを選択するその精神の固有性に引っ張られる。その精神とは「美を求める心」である。それがどういう形のものであれ、イデアとしての「美」というものが存在するという信念、そしてその「美」をどうしても追及してやまない飽くことなき精神である。それゆえ、作品が壮大になればなるほど、素材がどうあろうとそれはあらかじめ彼の偉大な「美という観念」に毒されたものとなってしまう。先ほどのピアノ・フェイズの美しさを見よ。いや、聴いてみよ。それは、どれほど偶然性に左右されているように思えようとも、ライヒの美しい精神そのものの反映なのである。

 もちろんそれは悪いことではない。この最高の芸術がライヒの偉大な精神によって私たちに与えられたことは素晴らしいことであり、20世紀の大きな僥倖のひとつである。しかしそれは、モーツァルトが偉大で素晴らしい芸術を残したこの世界に我々が生きているのと同じ僥倖である。悲しいかな、ライヒの「18人の音楽家たちのための音楽」はモーツァルトの音楽同様、もはや私たちの同時代の音楽、「我々のこの時代」の Contemporary Music ではない、そういう気が私にはするのだ。スティーブ・ライヒでさえ、である。それほどまでに現代の変化は早く、すでに20世紀に萌芽としあった不吉な予兆が、21世紀に入り、どんどん現実のものとなりつつある。では、どんなものが我々のこの時代の Contemporary Music なのか?それは私にはよく分からない。だが、私がアーノルド・ドレイブラットの「Escalator」に惹かれる、というか共感するのは、彼の音楽がこの目まぐるしく殺伐とした時代を生きる自分にとってまさしく Contemporary Music であるように思えるからだ。ライヒの「18人の音楽家たちのための音楽」と何が違うのか?それは安易な美を安易に求めようとしないことである。できるだけいっさいの抒情性を排しようとするその徹底的な態度である。手垢にまみれた抒情性を排したその分、そこから何がしかの感動が偶然得られれば、それはより純粋な感動と呼べるものである。それがすべての音楽の根底にある感動の原体験であり、彼の音楽が手垢にまみれた抒情性ではなく、純粋な感動の原体験に近いものを呼び覚ましているように思えるのである。もちろんライヒが安易だと言っているのではない。しかし、偉大な芸術家にはありがちなことであるが、彼は美を求める自らの精神性に対しては盲目的であり、その美はある意味すでに手垢にまみれた美であった。ただそれは、今まで誰も見たことのないほど最高に洗練された素晴らしい「手垢にまみれた美」だったのである。それゆえ私は、ライヒの「18人の音楽家たちのための音楽」は、手法においては革命的ではあったが、そしてそれにより到達した審美的な音楽的完成度の点では他に比類のないものだとは思うが、その抒情性という点では何ら革命的だとは思えず、それまでの西洋のクラシック音楽の延長線上に位置する傑作の一つであるように思えるのだ。

 現代音楽、現代美術、現代芸術、現代文学、現代哲学など、これら「現代」と名のつくものは押しなべてすべて難解だと言われ、一般的に「一般の方」からは嫌われる傾向にある。その理由は、この現代を相手に真剣に格闘する芸術家や思想家は、このアーノルド・ドレイブラット同様、安易な美や抒情性や真理を安易に求めることをやめたからである。何が美しいのか、何が真実なのか、何が素晴らしいのか、何が優れているのか、何が確かなのか、そういったものを安易に信じ込むことが、この現代の不幸を導いているものの一つではないかと気付いたのである。

 生きることに何の意味も求めず楽しければそれでいいとあっけらかんと生きるのは楽だが、どこか不健全な気がする。だが、あまりにも意味を求めすぎたり安易に求めようとするのも不健全な気がする。そもそも何が健全で何が不健全なのか、そういったものを示す指針や手がかりすらも、この時代は失ってしまった。

 懐疑。方法的懐疑。それこそがもっとも必要なのであろう。コギト・エルゴ・スム「我思う。ゆえに我あり」。やはり、そこから出発しなければならないのか?しかし何を今さらデカルト?

 現在ちょっとした哲学ブームなんだそうだ。そのせいもあり、今までその二元論がヨーロッパ近代精神の諸悪の根源であるとして哲学界ではこき下ろされることの多かったデカルトだが、それが今、復権しつつあるのだそうだ。この、何でもかんでも多様性がもてはやされ、「それはあなたの意見でしょ?」と何でもかんでも相対化されてしまい、何を頼り、何を信じてよいかまったく分からなくなってしまったこの現代、それは哲学者または哲学者もどきの書き入れ時でもある。私もつい先日、講談社現代新書で岩内章太郎という若い哲学者あるいは哲学学者(哲学者と哲学学者の違いは大きい。この著者がどちらかはあえて言わないが … )の、デカルト主義の復権を目指す「〈私〉を取り戻す哲学」という書物を読んだばかりだ。感想はと言うと「う〜ん」といったところか。もちろん向こうは専門家で、こちらは一介の予備校講師にすぎないので何も偉そうなことは言えないが、結局、デカルトの懐疑主義を現象学のフッサール経由で、「それを言い出せばおしまいよ」的な今流行りの間主観性の議論に持ち込んでくるだけで、私としてはこれを読み始めた動機を満足させるような確かな説得力は何も得られなかった。

 毎度のこと、本題がだらだらとずいぶん逸れてしまった。そもそも何を論じるにしても私には一見分かりやすい本題または主題というものがないのだが、それは敢えて意図的にやっている。それに関してはいつかゆっくり語るとして、最後に私の好きな、それはそれはとろけるほど美しいピアノ曲を1曲と、もう一つ「手垢にまみれまくった」ロマンチックでセンチメンタルなお口直しで、今回は締めることにする。

Ivan Wyschnegradsky イワン・ヴィシネグラツキー
1893年5月14日 サンクトペテルブルグ生まれ。1979年9月29日パリで没。ロシア帝国出身のフランスの作曲家。ソ連時代より、半音よりも狭い音程による「超半音階技法(ウルトラクロマティシスム)」を理論的に体系化し、その後は微分音音楽の追求者として有名になる。4分の1音程から、1オクターブを71等分した音階までを発案する。(Wikipedia より)

"Ainsi parlait Zarathoustra"(ツァラトゥストラ、かく語りき)
ピアニスト: Sarah Gibson, Thomas Kotcheff, Vicki Ray, Steven Vanhauwart
指揮者: Donald Crockett
新たな美しさと抒情性という点では文句なく革命的であると私には思えるピアノである。

お口直し BLU-SWING 田中裕梨 "SUNSET"
これは単に気まぐれです。でもこの曲むちゃくちゃ好きなんです。

(2020年2月28日に他のブログに投稿した記事を大幅に加筆修正)

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