見出し画像

さすらいの二人(The Passenger)


「一つ聞いていい?」
「一つだけなら」
「一つだけ。いつも同じ。
 一体何から逃げてるの?」
「後ろを振り向いてごらん」

 今日は映画を一本紹介したい。ミケランジェロ・アントニオーニ監督による「さすらいの二人」という生涯で最も好きな映画である。 製作公開は今から半世紀近くも前の1975年。主演男優は、当時まだ38歳のジャック・ニコルソン。主演女優はベルナルド・ベルトルッチの「ラストタンゴ・イン・パリ」でマーロン・ブランドの相手役を務めたマリア・シュナイダー。

 この映画、日本公開時に映画館で見て以来これまで、ビデオやDVDなどで幾度となく見たのだが、つい最近もう一度見た折に、あることに「はた!」と気付いてしまったのである。 

 この映画を見たために私の人生は狂ってしまったのではないか?

 ネタバラシにならない程度にストーリーの出だしを紹介すると、ジャック・ニコルソン演じるデイヴィッド・ロックは国際的に有名な英国人ジャーナリスト。ある国の内戦を取材するためアフリカに来ている。この出だしのアフリカの荒涼とした殺伐な、それでいて何か果てしない郷愁と異国情緒を誘う砂漠の映像が素晴らしい。

 ある日、ロックは反政府軍ゲリラに接触を試みるが失敗する。砂漠の中の簡素なホテルに戻ってみると、そのホテルで知り合い、酒を酌み交わし語り合う仲になっていたロバートソンという男が隣室でベッドにうつ伏せになって死んでいるのを見つける。持病の心臓発作らしいその死顔をまじまじと眺め、ロックはロバートソンの顔つきや背格好が自分に非常に似ていることに気づく。そして彼は何を思ったか発作的に、その死体を自室に運び、ちょうど発見した時と同じように自分のベッドに横たえ、パスポートの写真を貼り替え、持ち物や衣服もすべて取り替え、ロバートソンになりすましてしまうのである。そして、ロバートソンの残した手帳に記された予定を辿り、ミュンヘン、ロンドン、バルセロナと旅を始める。

 だがその行程で、実はロバートソンがアフリカの反政府ゲリラに武器を提供していた武器商人であることが明らかになってくる。ロバートソンになりすましたロックは成り行きで反政府ゲリラから多額の武器代金を受け取るが、お金を「騙し取られた」ゲリラや政府側の暗殺者らしき人間、警察、そして夫の死に不審を感じた妻のレイチェルなどに追われ始め、そして、ひょんなことからバルセロナで知り合った、建築を勉強しているという、マリア・シュナイダー演じる英国人女学生と「どういう訳か」逃避行を始めるのである。

 この映画を受け入れられるかどうかは、まさに最初の出だし、ロックがジャーナリストとして成功した自らの人生を捨て、ロバートソンになり代わってしまうところであろう。そこに何らかのリアリティを見出せなければ、この映画は、人によって感想はさまざまであろうが、せいぜいよくて映像美と独特の雰囲気を楽しむだけの「ふーん、こういう映画もありね」ぐらいの感想で終わってしまうかもしれない。大半は「映画だからね。現実にはそんなことあるわけないじゃん。」「終盤、えっ?という感じで、そこそこ面白かったけどね」と、そんなところであろうと思う。

 確かに巷の一般人の映画評などでも、そこに違和感を抱き、映画に入り込めないというようなことを述べる人が多い。曰く、その行動に説得力がない、または、そうするに至った主人公の心の襞がまったく描かれず、必然性が感じられない、等々。カメラは、ゲリラとの接触に失敗し苛立ちながらホテルに戻り、シャワー室に石鹸すらないことに愚痴をこぼす、その淡々とした日常性のごく自然な延長線上に、ロバートソンへのなり代わりのシーンをつなぐ。そこにはロックの内面的な葛藤やそれまでの人生に対する深い疑義を暗示するような、多少なりともドラマチックなものは微塵も感じられない。唯一それをわずかに伺わせるシーンが、うつ伏せになって死んでいるロバートソンを仰向けにし、その顔をロックが間近でまじまじと眺めるシーンである。その時、ロックの脳裏には何が去来していたのか、映画はまったく語らない。

 横に死体があり、それが単に自分に似ているからといって、衣服や持ち物を取り替え、その人になり代わってしまおうなどと人は安易に考えたりはしない。もちろん苦しい時、人生に生き詰まりを感じている時など、他人になり代わることを夢想することはある。だがそれは、その境遇を羨ましく思っていたり憧れていたりする人であり、横に転がっている、知り合ったばかりの赤の他人の死体ではないだろう。

 だが私には、このシーンは名状し難いリアリティを持って迫ってきた。奇妙な言い方だが、そのリアリティのなさが私に「リアルに」伝わってきた、と言うべきだろうか。日常の現実が私にとってリアリティをあまり伴わない分、この映画の微妙なあり得なさが、妙に懐しく肌にしっくりと感じられるとでも言うか・・。

 無慈悲なほど真っ青な空。空に水と生気を吸い尽くされたかのような、どこまでも続く赤茶けた砂漠。ひんやりとした、それでいていつもそばに寄り添っているような、そこはかとない温かみを伴った虚無。意味の無さ。

 もちろん、映画の中の、ジャーナリストとして国際的に成功した大の大人と、当時まだ二十歳そこそこの青二才とでは、それまで辿った人生の重みはまったく違っているだろうし、それを捨てるということが含意する重みもまったく異なるであろう。だが、それはこの際関係ない。私はデイヴィッド・ロックに自分を見ていたからである。空っぽの自分を。

 ジャーナリストとして国際的に成功した大の大人のそれまで辿った人生の重みだとか、それを捨てるということが含意する重みだとか、そういうものは傍から見る者が勝手に推察しているもので、本人にとっては何の重みもないかもしれない。むしろ監督のミケランジェロは、そういう空っぽの人間、またはそういう人間を通して見た、社会的に意味付けされたものの無意味さを描き出そうとしているようにも思える。

 問題は「自分がない」ということである。自分には自分がない。デヴィッド・ロックにも私にも、自分がないのである。空っぽ。空っぽの人間。だから、それはそうなったで至極当然のことなのである。

 それはロックがゲリラのリーダー(らしき者)をインタビューするシーンに表れている。ロックはインタビューアーとしての誠実さを逆に問われ、手にしていたカメラを奪い取られ、それを自分に向けられ「お前の内面はどうだ?」と言わんばかりに自分の姿を映し出される。ロックはどう答えていいか分からない阿呆のように、型通りの言葉を繰り返すだけである。

 人生の重みだの内面の深みなど、人間的にこの世に存在することの空虚さと無意味さに耐えられない者の、せめてもの飾り付けにすぎない。なぜ私達は生きているのだろう。こんなにも無意味な生に無意味な価値や意味を無理矢理こじつけながら、なぜ生きざるを得ないのか。その無意味さに気付いた時、人間が生きるというすべての営みは、この無意味さからの逃避か忘却の試みにすぎないことに気付く。

(この時、マリア・シュナイダーは、前作の「ラストタンゴ・イン・パリ」の、今なを物議をかもす壮絶なレイプシーンの撮影から受けた心身の深い傷が癒えていなかったと言われる。「さすらいの二人」での終始投げやりで物憂い悲しげな彼女の様子は、演技とは言え、58歳で幕を閉じたその後の彼女の人生を考えさせ、胸に迫るものがある。)

「何が見える?」
「少年とお婆さん。どっちに行くか揉めてるわ」
 ・・・
「君は来るべきじゃなかった」
 ・・・
「今度は何が見える?」
「男が肩を掻いてる。少年が石を投げてる。砂も。」
 ここは埃っぽい所ね」
 ・・・
「世の中はおかしなことばかりね。人間も。
 目が見えないとぞっとするわね」
「目の見えない男を知ってる。
 40歳の時に手術を受け、見えるようになった」
「それで?」
「最初は有頂天になって喜んだ。人間の顔、色、風景。
 だが次第にあらゆるものが変った。
 世界は想像していたよりも貧相だった。
 汚く醜かった。
 どこを見ても醜かった。
 以前は杖をたよりに横断歩道を渡ったものだったが、
 目が見えるようになってからは渡るのが怖くなった。
 闇の中で生活するようになり、
 家に閉じ籠もった。
 3年後に自殺した」

 デイヴィッド・ロックと、そのマリア・シュナイダー扮する謎の若い女性が旅するスペインの、ざらざらとして乾いた風景と、虚無的なほどの突き抜けたその空の青さが非常に印象的である。そして、有名な最後の7分にも及ぶカメラの長回しのシーン、それに続く、フラメンコギターの静かな枯れた音色をバックに映し出された夕暮れのシーン以上に哀愁を帯びたエンディングを私は知らない。

(ワンショットで撮られたこの7分にも及ぶ映像、当時、非常に話題になった。皆さんはお気付きだろうか?部屋の中を映していた映像は次に鉄格子の窓の外を映し出し、やがてそれがどんどん拡大し、ついには狭い鉄格子の間をすり抜け外に出る。そしてまた部屋の中に戻ってくる。どうやって撮ったのであろうか?CGなどまったくないこの時代、正真正銘のワンショットである。私はその謎を知っている。昔買ったDVDの特典として、各シーンにジャック・ニコルソンの音声解説がついて、そこで彼がネタバラシをしていたのだ。ここではそのネタバラシはしません。謎のまま少し余韻を残して終っておきましょう。気になる人は調べてみて。(笑)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?