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夜霧と申します。

はじめに

はじめまして。
本記事……というか自己紹介文に目を通していただき、誠にありがとうございます。

私、東北のとある県にて、就労継続支援A型事業所に通っております、夜霧と申します。

本稿では、私の半生や自らについて、そしてこれからの展望について記していきます。
多少、身バレ防止のためにフェイクが入る点はありますが、概ね事実です。その点、ご了承いただけますと幸いです。

それでは、最後までお読みいただければと思います。

生い立ち

まず、私の約32年の人生について綴らせていただきます。

両親の離婚まで

平成3年の晩秋、私は、東北のとある地方都市にて生まれました。
父は、いずれまた別の回に述べようと思いますが、お世辞にも善き人ではなかった。反社会的人間であったことのみ、今回は記しておきます。
一方、母は、人生に絶望していた女性でした。そうでなければ、あのような人間と結婚するのには至らなかったでしょう。

そうした両親のもと、年子の弟とともに、私は小学5年生の1学期まで、その街にて生活していました。
正直なところ、この時期までの記憶がほとんど残っていません。私自身が虐待や虐めに遭っていた、などという事実はなく、むしろスクスクと成長していたようには覚えています。
しかし、父から母への暴力・暴言は酷く、他の親族関係には子どもながらに複雑な感情を抱いていました。

今でも鮮明に思い出されるのは、寝室がある3階の階段を登ろうとして、おそらくは転げ落ちたのでしょう、酔い潰れて濡れた姿の母が、廊下で眠るように気絶していた場面です。

私には、その姿が恐ろしく、哀しかった。

なぜそうなってしまったのか。十中八九、父から受けたストレスの影響であろうことは、当時の私にもうっすらとは理解できました。
しかし、私は恐れと哀しみの感情に蓋をし、廊下に寝そべる母に背を向け、寝室に戻った。翌朝、母はいつも通り振る舞っていたように覚えています。

今、思い起こしてみて不思議なのは、当時の私に"父への憎しみ"や"母への同情"が欠けていた点です。
人間としての感情が一部欠落しているのか、そのように考えた時期もありましたが、おそらく、両親を、家族という枠組みを失いたくないがゆえに、自分の正直な気持ちを無視し、"良い子"を演じるに徹していたため、そのような状態になっていたのでしょう。

間もなく、両親は離婚しました。
夜逃げ同然、「逃げるぞ」という母の一言に従い、母と私、弟は、同県の田舎町に引越しを行いました。小学5年生の夏のことです。
この際、母は、父とも繋がりのあった反社会的勢力に属する方のツテに頼ったそうです。

曽祖母の多額の遺産を食い潰し、果てはギャンブルでこさえた借金を連帯保証人の母に押し付けた父は、引越し後もしばらくの間、新居にやってきては母に暴行を加え続けていました。
その間、私は弟を守るように、あるいは父から存在を察知されないように、狭い部屋の隅で、布団を被って弟を抱きしめていたのを覚えています。

やがて父が訪れなくなり、母は自力で自己破産を行い、行政の援助を受けながら、私は見知らぬ田舎町での生活をスタートさせました。

あの町での7年間

小学5年生の2学期、私は新たな町、新たな学校での生活を始めました。
転校してすぐ、私に目を付けたある女子児童に虐められてすっかり滅入っていましたが、母や友人の助けもあり、特に問題なく小学校を卒業、そのまま同地区の中学校へ進学しました。

中学校ではさらに友人が増え、剣道を通じて厳しさや理不尽さも学びました。
一方、私を虐めていた彼女は、中学校に進学してすぐにその容姿を男子生徒たちから揶揄され、かなり酷い虐めを受けていました。

それを見て、「ザマァ見ろ」と感じた私が、武道から何を学んだというのでしょう。

当然のごとく、私は先鋒としての役割もろくに果たせず、勉学はそこそこ以下。最後の地区大会では後輩が先鋒の座に就き、私は補欠として、地区最弱に終わった大会を見届けました。

やがて高校受験。
なぜか私は、県内2位の偏差値を誇る高校を受験し、全受験生の中で下から2番目という成績で合格してしまいました。

この高校での生活は、紛うことなく、私にとって最高の青春でした。生徒会、恋愛未満の友人関係、世界史との出会い…。
高校3年生、私は文系1位、学年3位の成績をおさめ、推薦入試にて、東北の旧帝大へとストレートで進学しました。

さまざまなことがありましたが、あの町での7年間は私にとって、明るい側面の多いものだったように思えます。

大学、恋愛、鬱

大学進学に伴い、私は杜の都へと居を移しました。当時の私は、無敵感に溢れた田舎者丸出しの滑稽な青年でした。
学生自治寮で酒を覚え、大学では好きなだけ言語と西洋史に触れ、アルバイトにも精を出しました。

それも、わずか半年で幕を閉じることになります。

私は、自ら動かずとも友人はできるもの、という誤った認識を持ったまま大学生になってしまっていたのです。
高校までは、周りの方から仲良くなろうと働きかけてくれ、私にとってはそれが''普通"だった。
ゆえに、自ら学友を作ろうとしない私の姿勢は普通だったわけですが、結果、1年後期から、私は大学で独りぼっちになっていました。

大学に行かなくなった私を、寮の友人たちは心配し、連れ出そうとしてくれましたが、変なところで頑固な面がある私は決して動こうとせず、やがて寮生たちも諦め、私は完全に大学において孤立しました。

孤独に耐えきれなくなった私は、当時、まだ"出会い系サイト"と呼ばれていた深淵に手を伸ばしました。
孤独を癒すには丁度良いツールでしたが、誰かと会うでもなく、メッセージを送り合うだけのやり取りにはある種の虚無感がこびりつき、嫌気が差しつつもその深淵から抜け出せずにいたものです。

大学2年の春、アルバイト先に他大学の女性と、同大1年の男性が入ってきました。
2人とも、私と同い年です。
この2人と、数個上の先輩、この4人で自然と築かれた友情が私を救ってくれました。

私を救ってくれた3人は順調に大学、または大学院を卒業していき、アルバイト先からも卒業していきました。

一方、大学に行けなくなり、もはや在籍しているだけの存在と化した私は、留年によって奨学金と学費免除の恩恵を失い、もう退学してしまおうと決めたのです。
母にその件を伝えると、「金は何とかするから卒業しろ」の一点張りで、取り付く島もありませんでした。超極貧母子家庭、私のアルバイト代や奨学金から生活費や弟の学費を捻出していた人間が何をほざいているのか。
今だからこそ、当時の異常性がはっきりと分かりますが、その時の私は既に、おそらく鬱、または適応障害を発症しており、反発する力は残っていませんでした。
あるいは、生来、親に反抗する気質がなかったのか。考えてみれば、反抗期らしい反抗期もなかった。

結局、休学期間を含めて8年半、私は大学に在籍していましたが、最後は金が底をつき、学費が払えず除籍となったのです。
単位も取得し、論文も提出したというのに、全てが無かったことになりました。
この時点で、私の心は文字通りポッキリと折れてしまいました。

挫折や、心が折れた経験のある方なら分かると思いますが、"心が折れる音"というものは存在します。
あの時、確かに、私は自らの"心が折れる音"を聞きました。修復不可能なほどに、私の中の何かが砕けたのです。
そして、私の壊れた心は今現在でも修復されきっていません。

ところで、この長い長いモラトリアム期間に、私は幸運にも、人生の伴侶に出会うことができました。今の妻です。
詳細は省きますが、妻とはある映画をきっかけに知り合い、やり取りを重ね、1年間をかけて口説き落とし、付き合うに至りました。

私が今までの人生において最も努力したと自負しているのは、大学受験と、妻を口説き落とすこと、この2つです。

交際期間、彼女は献身的に私を支えてくれました。結婚した今もそうです。

大学除籍後、妻のススメで私は心療内科にかかってみました。結果、重い鬱とパニック障がい、不眠症を患っていることが判明したのです。

正直、ホッとしました。

こんなにも辛いのに、病気じゃなかったらどうすればよいのか。
母の影響もあり、私は精神論で物事を片付ける気質があったのですが、今ではそんな風には考えられません。
診断名がついてよかった、と心から思います。


あれから6年、いまだに私の精神疾患は治らず、"社会復帰"も難しい状態にありますが、妻、友人、事業所の方々など、多くの人のおかげで私は生きることができています。

長くなりましたが、これが私の大まかな生い立ちです。

夜霧という人間について

私は、自分のことを分析したり、語ったりするのが非常に苦手ではありますが、自己紹介ですから、簡単にお伝えできればと思います。

私、夜霧は、とても不出来で役立たずな人間です。しかし、驚くほどに人に恵まれている人間でもあります。

私は自己開示が好きではありませんが、ゆえに、信頼を寄せた相手には自らの深い所までを開示し、知ってほしいという欲求があります。
そして、相手にも開示を求めるのです。
私の自己開示を軽くあしらう人間、自己開示に応じない人間は、私にとって価値がありません。

深く狭い人間関係を最も好みます。

映画や読書、絵画、歴史に触れるのが趣味です。

楽観的でマイペース、他者に興味を抱かないという特性があります。

夏の夜の匂い、晩秋の黄昏時の雰囲気、蟲の声に心地良さを感じる人間です。

妻を愛し、数少ない友を愛しています。

社会的にはお荷物に属する人間だと思いますが、そんな自分にも役割があると信じ、自分のことも愛してあげよう、と日々努めています。

noteで書いていきたいこと

特に決めていません。
ただ文章を書くことが好きなので、思い立ったら何かを書こう、その程度の考えです。

ただ、読まれる方が、楽しい・面白い・興味深い、と感じてくださるような文章が書ければ感無量ではあります。

現在と展望

今は、就労継続支援A型事業所にて、Webライティングを行っています。
当面の目標は、体調管理に気をつけつつ、週5日フルタイムでの出社を継続することです。

将来的には、ライティングスキルを活かせる仕事に従事したいものですが、AIの発展とどう折り合いをつけていくかが課題でしょうか。
大人しく、オープン就労という道もあるでしょう。

いずれにせよ、妻と楽しい人生を送りながら、物書きを続けられれば満足かな、そのように思っております。

まとめ

ここまで読んでくださった方、誠にありがとうございます。
取り留めのない駄文にお付き合いいただき、感謝です。

今後、不定期に何かしら書いては上げていくかと思いますが、よければまた、読みにいらしてください。

それでは。

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