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好きなものがたくさんあることの弊害(南関東返歌推進協議会会報#4)

働いているだけで会いやすくなる友だちの二十代みたいに働いて/椛沢知世

「正夢」(「塔」2022年8月号)

メンバーズカードのチェックは抜き打ちで「いやー、そっちも忙しいでしょ?」/中型犬

自作短歌

好きなものコミュニティ

先日、朝起きてスマホを開くと、昨晩寝落ちしたときの画面が表示された。
そこには、ツイッターの下書きの画面で、虹のコンキスタドール大和明桜あおさんのインスタの投稿をシェアするリンクに「アーオかわいすぎる!」と添えられていた。

証拠写真

その画面を見た瞬間、「投稿を思いとどまった俺、偉いぞ!」と抱き締めてやりたくなったが、おじさんがおじさんに抱き締められても不快なだけなので、思うだけにしておいた。
もちろん、大和さんは、めちゃくちゃかわいい。
海辺でTシャツを着てピースする大和さんは、頭がおかしくなるくらいかわいい。
写真には「彼女感」と添えられているのだが、こんな彼女がいたら、某統一された教えの会の信者のごとく、有り金全部貢いだうえで、目をギンギンにして一族郎党に絶縁されてもお金集めに奔走してしまうだろう。
大和さんが「感」を残してくれたおかげで、悲しみの連鎖が一つ始まらなかったのだ。
ありがとう、アーオ。

現在、ツイッターでは主に短歌のことを呟いているし、フォローいただいている方々も短歌の縁でつながった方が多い。
そうすると、私の大和さんへの偏愛を笑ってもらえるだろうか、心配である。
もちろんこれまでもアイドルに関するつぶやきは結構しているのだが、それでもかなりセーブしてやっていて、前記のような直情的な表現の投稿は下書きメモに書いて、翌朝手を合わせて供養している。

これは、過去の反省からの行動である。

アイドル、お笑い、ラジオ、ラーメン、動物園、HIPHOPなど、好きなものがたくさんある。

好きなものがたくさんあるがゆえに、それぞれのコミュニティになかなかうまくなじめないことがあった。

ラジオを聴くのが好きで、ラジオのコーナーにネタメールをたくさん送っていた時期があり、そのころはラジオ好きメール職人コミュニティに属そうとしていた。
しかしこの界隈、入り込んでみると、芸人ラジオ、アイドルラジオ、声優ラジオ、など細分化されている。
芸人もアイドルも同じくらい好きなので、両方に送っていたのだが、芸人ラジオ界隈ではもはや芸人よりネタを作っているストイック職人軍の方々に到底敵うはずはなく、一方で、アイドルラジオ界隈だと自分がおもしろいと思うネタは全く採用されない。
はじめのころはビギナーズラックでそこそこ読まれていたのだが、次第にネタを作るフォームが崩れていき、何がおもしろいのか全くわからなくなり、読まれることが少なくなってしまうし、微妙に磁場の違う芸人ラジオ好き界隈とアイドルラジオ好き界隈の境界線で、ときおり起こる軽めのラジオ好き同士のいざこざなんかを見ているうちに病んでしまって、アカウントごと消してしまった。

一方、アイドルオタク界隈だと、ライブや特典会は楽しいのだが、それを待っているときに、グループでいるオタクの方々(だいたい男3女1)から、明らかにぼっち勢に聞こえるように発声された声で「やっぱ現場だよな」「ループしないやつはオタクじゃない」とあからさまにマウントを取られた挙げ句、少人数イベントでファン同士でも交流する場面があり、そんな方々とも気を遣ってお話した後に会場を去ろうとすると、ちょうど聞こえるか聞こえないかの距離にいるときに、「あの人誰?」「ハガキ職人」と侮蔑するような声が聞こえて、そのまま完全在宅に移行したこともあった。

ただ、そのようなことをおっしゃる方々の気持ちも実はよくわかる。
その人たちにとっての大事なコミュニティをその人たちが居心地よくするため、他ジャンルのオタクを排除することで、コミュニティの結束を強めることは正義である。
実際、空気を読めないタイプの人が強引に入りこんで関係ない話を長々としていたり、いわゆる女ヲタヲタ(アイドル現場で女性のヲタクを口説こうとする男性のヲタク)の対応に苦慮するアイドル現場に遭遇したこともある。
そんなことを考えると、いちいちその人の中身をチェックするため入り込む隙を与えるのではなく、「他ジャンルのオタク」というラベリングが見えたら、速攻排除するというのは、そんなに不合理でもないのだ。

ただ、当方常々ぼっち参戦にこにこおじさんでございます。
人畜無害ですので、少しだけ優しくしていただけるとありがたく存じます。
それに、いろんなエンタメ、横断的に観るのも、楽しいですよ!

そして、短歌界隈でございます。

好きなことがたくさんあるのは、もう直しようもないものでして、今後私がアーオかわいい、アーオしか見えない、アーオ、アーオ、アーオ!!!と錯乱していたとしても、短歌への思いも真剣であることをご理解いただき、引き続き半目で遠くから眺めていただけると幸いです。

外縁がかたちどられることで浮かび上がるもの

ここ数か月、笹井宏之賞応募作品の作成に取り組んでいた。
その過程で、昨年の笹井宏之賞の受賞作や選考座談会を読み直していたが、大賞を受賞した椛沢知世さんの20首連作が塔2022年8月号に掲載されていて、やはりとても魅力的だった。

笹井宏之賞受賞作の「ノウゼンカズラ」にずっと流れ続ける不穏な空気。
それは一首単位だと、なんなら爽やかな一首にも読めるようなものが、連なることで別の輪郭を持ち始めること。
選考座談会で大森静佳さんが指摘していた「この作品自体には描かれていない何か残酷なこと、不穏なことが通り過ぎていったその事後や周囲を書いているような感じ」がしっくりくる。
この連作でもタイトルの「正夢」というヒントだけが与えられる中で、読者は、掴めそうで掴めない「なにか」を探る旅に出る。

働いているだけで会いやすくなる友だちの二十代みたいに働いて

椛沢知世「正夢」(「塔」2022年8月号)

三句目で切れると読めば、20代のようにバリバリに働く友人に対して、自分も忙しく働いていることで会いやすくなるという歌。
一方、「友だち」までを一区切りにするならば、ワーカホリックな友だちを客観的な視点から揶揄しているように読める。
いずれにしても、「働く」ことがやたら重要視される社会に対して角度のある視点がある。

ずっとなら社会人十一年目 六月は正夢のように汗

椛沢知世「正夢」(「塔」2022年8月号)

タイトルの「正夢」という言葉が登場する唯一の歌。ここでも働くことへの眼差しがある。
上の句は、「ずっと(働いていた)なら」と読んで、無職を経験していることが感じられるのだが、下の句とのつながりがはっきりしない。
汗をかくことが正夢のようだ、とはどういう感覚だろうか。
正夢は、夢が現実になって、独特な気持ち悪さがある。
そんな気持ち悪い汗は、冷や汗で、だとすると上の句からのつながりで、就職(転職)面接を受けている場面だろうか。

睡蓮が顔に変わってゆくところその水を飲み干すように見る

椛沢知世「正夢」(「塔」2022年8月号)

前二首が抽象化されているが現実を土台にしている一方で、完全に抽象的な歌もある。
睡蓮が顔に変わるとは、なんとも不気味な場面だが、さらにそこにある水を飲み干すように近づいて見ている。
グロテスクなものに興味が湧いてしまう。
これも「正夢」という不思議で気味の悪い感覚につながるものだろうか。

猟犬が追い詰めるようにじんましん右肩から左の手首へと

椛沢知世「正夢」(「塔」2022年8月号)

これは、身体症状がはっきりと浮き上がってくる歌。
猟犬は、山でターゲットとなる獣をじわじわと追い込んでいく。
主体は、なにかに追い詰められている。
その理由ははっきりとしないが、先の歌からすれば、労働(就労)に関することか、はたまた作品外だが、最後に「歌集準備中。」とだけ添えられており、歌集執筆の苦労をメタ化しているというのは考えすぎか。

壁中が切手で埋めつくされる夢わたし以外にわたしがいない

椛沢知世「正夢」(「塔」2022年8月号)

本作品中で「夢」が登場するのは、先の歌とこの歌だけである。
切手は郵便で使うもので、どこかに運ばれるイメージだろうか。
下の句がさらに難解で、私以外に私がいないというのは、人間が個人個人で違う以上当たり前のことであり、なぜ粒立てられているのか。
対比として、私以外に私がいる世界を考える。
つまり、私は代替可能な存在である。
すると、この歌は、取り替えの効かないはずの私がどこかに運ばれていなくなってしまうようなイメージだろうか。

ドクダミは躑躅を突き破り咲いた咲いた喉から出す笑い声

椛沢知世「正夢」(「塔」2022年8月号)

ドクダミは繁殖力が強く、躑躅(つつじ)を突き破ってはびこる。
その様子を見て笑っているようだが、咲いた咲いたの繰り返しに不穏さがある。
ドクダミと躑躅の関係は比喩であり、ドクダミが躑躅を突き破るように、主体が強引に笑うことで、憂鬱さを突き破っているように感じられる。
連作全体が妙な気持ち悪さに支配される中で、自らの行動でそれを打ち破ろうとするところに一の希望があるようにも感じた。

全く的はずれな考察も多々あることをお許しいただきたいが、そんなことを考えざるをえないほどパワーのある作品である。
現在準備中の歌集も含め、椛沢さんの今後の活動を楽しみにしている。

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