塔2024年2月号気になった歌10首⑨
「永遠に」という不可逆性のある強い言葉があり、命を食べているというあたり前のことにハッとさせられる。「ゆでたまご」「つばさ」が仮名でひらかれていることで、一首を見たときのバランスがきれい。
紫野春さんの連作から。「都市の底」と題された一連は、都会的な風景に垣間見える自然の姿や過去の記憶の風景が作者独自の視点・感覚でとらえられている。引用した歌は、遠くから草木に見えていたものに触ったときにフェイクグリーンであることに気づくという、人工的なものへのちょっとした違和感がある。最後に配置されている「知らず知らず暗渠のうえをゆく日々のいつしか水は海に交わる」も都市で生活するものとして、グッときた。
「働くだるま」の強さ。だるまは、縁起物として、存在するだけでいいはずである。しかし、命を持ってしまった我々のようなだるまは、縁起物としての役割も果たしつつ、働かなくてはならない。定食屋の一人席で生命維持装置につながるように黙黙と食べる姿の神々しさに、本人の気づかれないところでみな拝んでいるだろう。
上の句を主体の願望と読んだとき、「ほしかつた」ものの主眼は、「娘」なのか、「くだものの名前」なのか。栗は、分類としては、くだものに入るようだが、くだものと言ったときにすぐに思いつくものとはいえない。関連性があるようでないような、心情と光景の微妙なねじれた関係が不思議で、それなのに妙な説得力を感じた。
熊であったら食べられない食事の多様な人間の世界。ピザ、ソーセージ、牛と加工度が下がっていく配列に、加工されたもののおいしさだけでなく、素材本来の味も楽しんでいる人間の食へのあくなき姿がある。しかし、よく考えれば、熊が食べれて、(ほぼすべての)人間は食べられないものがある。「人間」である。そこにおぞましさを感じることのできる点でも、ある意味人間でよかったのかもしれない。
筆者の職場の同僚が昔、「かつ丼はいい。飲める。」と言っていたのを思い出した。確かにかつ丼は飲めるのだ。ゆえに、くそ忙しくて食事の時間もまともにとれないが、それでもがっつりとしたものを食べたいという感情にかつ丼は、いつもドンピシャでハマる。人のせいにしても時間は無駄に過ぎるだけであり、食事の時間を惜しんで自ら困難に立ち向かっていくような主体が頼もしい。
上の句の主語は、主体自身にも、カフェで声の聞こえる位置にいる別の人とも読める。いずれにしても、テロ・戦争の当事者であるハマスを話す人は当事者ではなく、どんなに心を痛めたりしていても、所詮は他者でしかない。下の句は、一般化された言い方で、確かに当事者以外(場合によっては当事者であったとしても)の声に出来事が置き換えられたところから、出来事そのものからは遠ざかっていく。
飲食店で珍しくなくなった配膳ロボット。人間のために働くロボットが忙しくて、人間がロボットの代わりをしているという描写が楽しく、ロボットでなくてちょっと悲しそうな感じもおもしろい。確かにねこちゃんの配膳ロボットは、かわいい。
「蝙蝠(へんぷく)」は、こうもりのこと。珈琲に入れるミルクは、通常は1つだろうが、2つ入れるところに、やや強い思いで珈琲の苦みをゆるやかにしようとしているような感じがある。蝙蝠には、闇を示すものとしてのイメージが浮かぶ。黒の珈琲、白のミルク、黒の蝙蝠という色のコントラストが印象的。
幸せ最高大好きわんちゃん短歌。秋の晴れた日に凜とたたずむ柴犬が浮かんだ。柴犬の白いまつげに陽があたって、柴犬の茶色の毛色に近づいているよう。絶対かわいい。
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