ひねもすvol.2感想
2000年生まれ以降の9人の歌人集団「ひねもす」の作品集「ひねもすネプリvol.2」読みました!
気になった歌9首
昨晩飲み残されたコーラが朝になって炭酸がかすかになっている様子が、深夜まで続いた友人との遊びや飲み会の楽しい時間の果ての翌朝の虚無感のメタファーになっている。
「新学期になってから」というエッセイと併せ読むと、作者が大学のモラトリアム的な雰囲気へ懐疑的で戸惑っている様子が描かれており、この歌も周囲になじもうと行動をともにしてみたものの、体力や知力が奪われていって、残滓(のこりかす)のようになっている自分を客観視している歌に読める。
上の句では、「狂乱」「残滓」という固い言葉が並ぶ一方、下の句では「わずかに」「している」と平仮名を主にした柔らかい言葉が並んでおり、昨晩の緊張と朝の穏やかさの対比にもなっている。
「パース」とは、遠近法の意味で、デザイン業界では、空間のイメージがわかりやすいように、店内の外観や内観を立体的に描くことを指すらしい。
確かに、肉や魚などの素材そのものを活かした料理では、塩を一振りするだけで、甘みや独特の風味が際立ち、料理の美味しさが格段に向上することがある。
大学でデザイン工学を学んでいるという作者ならではの比喩が素晴らしい。
独りの食事は孤独だが、その孤独を耐え、格闘した先に、暖かくにぎやかな食卓が待っている。
添えられたエッセイで作者が自らの持つ詩性との葛藤が描かれており、郵便馬車の比喩は、そういった詩性のようなものが運ばれてくるのを待っているイメージだろうか。
タイトルの「fantasic」は、「fantasy」から派生した和製英語であり、英語にはない単語であるが、あえてその言葉をアルファベットでタイトルとしつつ、歌では一切アルファベットはおろか、カタカナを使わないところに、作者の遊び心も感じる(見返したら、vol.1でもアルファベットのタイトルながら、歌ではアルファベットもカタカナも使われていない!)。
タイトルから「メンヘラ」をテーマにした一連であることがわかるが、四隅までぴったり貼られていないと意味のないスマホの画面保護フィルムがどこか一つの角ではなく、四隅全てから剥がれているというのは、その剥がれる隅を押さえつけるであろうスマホの持ち主の動きも含めて、かなりのかまってちゃん型メンヘラである。
メンヘラである以上、人間ではあるだろうが「いきもの」とするところに、依存や自傷など反知性的な行動を繰り返して人間から離れていくメンヘラへの作者の鋭い眼差しが読み取れる。
インスタに載せる写真は、キラキラした盛れた写真がいい。
インスタのために撮る紫陽花の写真は、純粋に花をきれいで撮るという気持ちとは距離があり、そのことに後ろめたさを感じる作者の心の影が落ちる。
結句で「暗さは」と言いさしで終わるところに余韻があって、モヤモヤとした感情が感じられる。
恋人と見つめ合っているときだろうか。
恋人の美しい目に貫かれるように惹かれるが、その目にはつややかで冷たい墓石のような輝きがある。
美しくて怖いものへの畏怖。
強引に情景を特定しようと試みたが、うまくいかず、それでも妙に惹かれた。
5首を通じて、ひらがなの使い方が巧妙。
詩歌が散文とは異なることを活かして丁寧に言葉を選んでいる。
「レモンエロウ」は梶井基次郎『檸檬』中の檸檬の色について、「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色」という一節からだろう。
31歳の若さで死んだ梶井基次郎が透けて見える5首を通して、若くして死んでしまった関係性の深くない親戚の葬式が浮かんだ。
引いた一首は、黄色を身に着けた僧侶の読経がそろっていく様子だろうか。
はじめは揃っていなかったものが、段々揃っていく不気味さは、『檸檬』における日常に潜む狂気が描かれることと重なる。
起こしてしまったミスに対して不相応な扱いをされていることを、自分が愛らしくて何でも許されるイルカじゃないから、と理由づけする滑稽さがユーモラス。
「イルカ」のチョイスが絶妙。
イルカはショーのために調教されているので、遅刻したら、怒られそうなものだが、適当に愛らしい動物を並べている感じも、怒鳴っている人を小バカにしているようで痛快。
学業、恋愛、遊び、友人、学生時代は、選択肢が無限にあって、その中から選ぶことはたくさんあるけれど、一方で自分がその対象として他者から選ばれる場面も多々ある。
そうしたときに、自分が物事や他者を選ぶ頻度に比して、選ばれることが少ないような気持ちになってしまっているところに学生時代の悶々とした気持ちが伝わってくる。
「ビニール傘の雫を落とす」という行為に、雫を振るい落とす光景が浮かび、自分が選ばれるかどうかという場面でふるい落とされてしまっているような情景と重なる。
同世代による同時代性
vol.1では、ある種の顔見世的にプロフィールもやや固かったり、作品もそれぞれの尖ったところを際立たせたようなものが多いように感じたのですが、vol.2では、やや肩の力も抜けて、いい意味でそれぞれの個性が自然な感じでにじみ出ているような作品が多いように感じました。
特に作品の発表時期が新年度に入った時期のため、環境の変化を詠んでいるものが多く、それぞれの感受性の豊かさが存分に表現されていました。
一音乃さんの繊細さ、折田さんの批評性、からすまぁさんの詩性、かわうちさんの飄々とした鋭さ、小島さんの叙情性、白野さんの言葉の美しさ、中牟田さんの文学性、松下さんの生活を切り取る鮮やかさ、谷地村さんの言葉選びの的確さ。
どれも短歌としての技術的な巧さだけではなく、それぞれの個性が光っていました。
また、ある年代の歌人が同じ時期に創作した短歌が並ぶことにより、時代に対する批評性を自然とはらんでいることのおもしろさも感じました。
そんなことを考えながら、ああ、時代ってこうやって作られていくのだなと、感慨深く読みました。
今後の活動も楽しみにしてます!
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