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「いじめ」には「いじめられた側」がいることを忘れてはならない。

こんばんは。少しずつ回復しているゴリィです。僕の紹介はこちらで。

さて、僕が熱でやられている間に某氏の「いじめ告白」の話題が一部で盛り上がっているようですが、某氏の音楽は僕も大学時代によく聴いていたので、とにかく残念の一言に尽きます。

で、いじめを受けてきた僕の見解です。


いじめは犯罪行為

まあ、これは今更言わずもがななんですけどね。暴力や、言葉でのいじめ、無視などのいじめは「肉体的・精神的に苦痛を与えた」ことになるため、「いじめ行為」はすべからく「傷害罪」に該当すると僕は思っています。

いじめかどうかは、「本人の受け止め方」が基本で、「本人が嫌と思えば『いじめ』」「本人が嫌と思わなければ『いじり』」と僕は考えています。ただし、いじめられた側が正常に状況把握できない場合は、一律「いじめ」になるでしょうね。


「いじめているつもりはなかった」は通らない

「いじめているつもりはなかった」といじめた側は言うと思います。特に中学生くらいまでなら実際にその分別がつかないこともあると思います。

ただ、それで許されるものなのか?

答えは「NO」。意外にも「犯罪になってしまう行為」というのはよくあるもので、代表例は「立小便」(軽犯罪)など。そこに悪意があろうがなかろうが、結果的に犯罪行為が成立していれば犯罪に該当します

「いじめ」が厳しく断罪されるべき、とまでは思っていません。ただ、実際に肉体を傷つけた、金銭を脅し取った(これは「脅迫罪」ですかね)、いじめた相手が不登校になるなど客観的に加害行為が証明できる場合は、もっと警察が教育現場に土足で踏み込むくらいの勢いで介入してもいいと思います。


学校現場が「いじめ」を隠ぺいする

よくある話ですが、学校がいじめを把握した場合の多くは「隠ぺい」しようとします。学校長が「うちの学校でいじめがありました」とは絶対に言わないですよね。

学校運営の面子が立たなくなるからです。

でも、自分たちで解決しようとして解決できず悲惨な結果を生む。これは、昭和から平成、令和にいたっても変わらない体質だと思います。

僕の場合は学校教師が「いじめ」を先導してたので「論外」でしたけどね(笑)。


大事なのはいじめられた側のケア

ここでガラッと視点を変えます。「いじめた側」は何かしらの処罰があってしかるべき、この意見は変わりません。

しかし、もっと大事なのは「いじめられた側」です。

常に「いじめを受けた過去」を「無意識」に抱えながら、一生を生きていかなければなりません。この責任は、いじめた側の子どもというよりは、それを見過ごした学校教諭や親が責任を負うしかありません

「こころのケア」。これは大人でしかできないこと。

いじめを経験してきた人は、人間関係にはとにかく敏感です。無理に明るく振舞ったり、頼まれたことは断らない、等「自分の意思表示をハッキリすることで攻撃(いじめ)を受けることを極端に怖がる」傾向があるように思います(自分も含め)。

逆に、誰かから攻撃(反対意見を言われる、叱られる、等)を受けると過剰に落ち込んだり逆に攻撃的になったりします。これは、「いじり」が通用していた相手の度が過ぎても同じことが起きます。

親・教師などは、早いうちから心のケアをして、「無意識」に「いじめられた過去」という「恐怖体験」をできるだけ薄めていくことをしてあげないと、こころの成長過程に異常が生じます。その結果、無意識にある「恐怖体験」が常に影響し、「うつ病」「双極性障害」などの「精神疾患」になりやすいのではないかと考えています。


「十字架」を背負い続けるのはいじめられた側

「いじめた側」は、歳月が過ぎるとその過去はケロッと忘れてしまいます。しかし、「いじめられた側」は「恐怖体験」という「十字架」を生涯にわたって背負うことになります

適切なケアを受けることができなければそれだけその十字架は重くなります。ふだん、意識していなくても無意識にはそれが重くのしかかっていますから、ポジティブに行こうと思っても何かあればそれに引きずられすぐに気分が重くなります

この状況で、「いじめた側」の謝罪に意味はあるでしょうか?

答えは「ありません」。いじめ行為があった直後に謝罪すればまた違うのでしょうが、何十年と経って謝罪を受けても十字架は軽くなりませんし、逆に「傷口に塩を塗る」ことになるのです。


「相手がいる」という感覚の欠落

さて、改めて某氏の謝罪文。「(相手の許しがあれば)直接会って謝罪したい」とかなり踏み込んだ内容になっています。

でも、今更謝罪では意味がないんです。

強くいってしまえば、いじめられた側が記憶を蘇らせないように自分から社会の脚光を浴びる場面から消えるか、もしくは現在いじめられた側が抱えている精神的な問題について、その解決の具体的な支援をするかどちらかです。

ただ、もっと問題なのは大会組織委員会。「謝っているんで許してやってください」といっているようなもの。「いじめ」という問題に「相手がいる」という視点が欠落していて、正直話になりません

今、この状況を「いじめられた側」がどう受け止めているか、という視点で考えたものではないので、納得いかないという声が上がるのは致し方ないと思います。

「いじめ問題」には、「相手」がいることを忘れてはなりません。


まとめ

「じゃあ、ゴリィ的に某氏はどうすべき?」と聞かれたならば、「オリパラ閉会と同時にメディア露出をやめる」ことですかね。時間的に辞退したら開閉会式が成立しなくなってしまうと思うので、今の職責はしっかり果たしてもらう。

多分、いじめを受けた側は某氏が注目や脚光を浴びるたびに心はざわつくと思います。だから、そのあとは名前と顔を出すことを極力控える。活動休止ではないのは、音楽は顔が見えづらいので、いじめを受けた側がその音楽を聴かなければいい話なので。

「いじめ」問題は「いじめた側への処罰感情」の話が先行しているように思います。有名人にもそのような発言が多いですし。

ただ、本当に大事なのは、その先の人生に渡って「十字架」(これ、本当は表現的に違うんだけどね)を背負っていく「いじめられた側」をどうサポートしていくのか、という問題がもっと取り上げられてもいいと思っています。

・・・

僕が教育学部に行き教師にならず、子どもも持たない独身生活を選んでいるのは、「まともにケアもせず、なんなら先頭に立っていじめをした教師」の存在と「それをガン無視し続けた親」へのアンチテーゼです。

とはいえ、今はその十字架の痛みを分かち合ってくれる仲間の存在があります。意識的にそうしていなくても、関わってくれているだけで十分そうなっているんですよ。

今回も最後までご覧くださりありがとうございました。

轟RADIO「こころいろ」

https://gory.jp/koko


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