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ジャッジメントせず俯瞰する視点と、「規定」せず瑞々しく聴く謙虚な姿勢


起きていることが「悪いことではないんだ」と思えると、今を味わいやすくなる


今日はボディーワークデイだった。身体としてはだいぶ気が満ちて来ていて、目にも力が戻ってきてるとのこと。身体ってやっぱりすごい。

1ヶ月前は、パニック再発のものすごい不安感や混乱でどうにもならず、何日間かは安定剤を飲んで過ごすほどで、その後も不安定な日々は続いた。

それでも、今私が縁している人は「病=良く無いもの」というジャッジメントの無い人だったこともあって、私自身オロオロはもちろんしたけれど、そんな中でも今起きていることが「悪いことではない」と少しずつ思えるようになっていった。

「悪いこと」と思うと、「治さないと治さないと」と今を否定して焦って、色んな手立てを過剰にしてしまうのだけど、それがかえって自然な身体の叡智、治癒力を妨げてしまったりする。

だから、病というものをジャッジメントしない目線、身体というのは自分の味方なんだよという目線を持った人に今関われていることが、私はすごくありがたい。

そういう視点が、今起きていることをまずジャッジせずに味わうことだったり、「なにもしない」という余白にある生命力を感じさせてもらったようにも思う。


ジャッジメントしない中立的な視点

そうそう、noteを書こうと思ったのは、今日もワーク後の雑談が面白かったから、なんとなく言葉にして残しておきたいなと思った。

武術をしている人なので、感じ取っている世界を粒子で例えると、とっても細かな粒子を繊細に濃密に感じ取っているように見える。

けれど、軸がばーんとしなやかに通っていて、現象との距離感を保つような修練もし続けているから、左右されない。色々と面白がっている様子。

結局、ジャッジメントから離れて中立なところから俯瞰していないと武術ではすぐにやられてしまうから、それが日常になっているという。

かたや私の方は、空気的なものを感じ取るのはものすごく繊細で、ちょっとした空気の揺れというか感情的に揺れたように感じるか感じないかくらいのスピードで、何か取りなそうと動いてしまう。

「繊細に感じ取っている」という共通点がありながら、ジャッジメントがあるかないか、そこに入り込んでいるか、中立的な俯瞰視点に立っているかいないかで、こんなにも違いがあるのかと思うと、すごく面白い!と思った。


コントロールできると思っているのか、いないのか


もう一つの違いは、その人は「コントロールできるものなんてない」という視点に立っていて、私は「コントロールできる」とどこかで思っている、という違いがあった。

顕在的に思っている訳じゃ無いけれど、例えば人と人のちょっとしたすれ違いなんかを感じ取った時に、間に入って取りなそうとしているのは、一見「いい人」なのだけど、ものすごく傲慢。

だって、それが保身や恐怖がベースだとしても、自分が動けば「なんとかできる」と思っている訳だから。

でも、その人の場合は「できることないな」と思って眺めている。そして人ではなく自分の中に起きているジャッジメントを内観している。しかも面白がりながら。

それってなんか、今は練習中だけど、聞いてるだけでワクワクした。


自分の中に生まれた「規定」を疑って広げる遊び

あとは、〜と〜、という話になった時に、「それが本当に分かれているのかはわからないよね」という話にも何度もなった。

自分の「規定」におさまると一見安心できるのだけど、それは狭い世界に自分を押し込めてしまうと。

治療に来る一流のアスリートの人は、初めてのことを聴くように自分の話を聴いて、そのままをトレーニングするからすごく効果を体感するのが早くて

そうでは無い人は、聞いたことを自分の世界の中で変換してトレーニングしちゃうから全然変化が違うと。

一流の人は、発揮できる力もすごいけれど、さまざまな経験をして「自分にはわかりきらないものがある」という謙虚さを持っている。それがさらに、世界を広げてくれる。

その治療家の人も「わからない」ことの方が自分を広げてくれるから、それが楽しいらしい。

都度圧倒的な存在に会いにいって(その人なら武術家の人等)、投げ飛ばされたりすると、驚くほどの力量や深み、繊細さに圧倒されて、またそこで世界の広さを目の当たりにし、伸び代を感じて面白くなってしまうらしい。

私もよく、すぐ「規定」をしてしまうけど、そこを面白がりながら「それって本当か?」って疑うのって余白が生まれて面白い。ゲーム視点とも通じてる感じがする。

初めてのことを聴くような瑞々しさで人の話を聞けたら、どれだけ楽しいだろうな。

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