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短編小説「ウォシュレット」

やばいやばいあかん漏れる。スーツ姿の中年男は開く扉の隙間に体をねじ込むようにして、勢いよく電車を飛び出した。「思えば、この駅には一度も降りたことがなかったか」車掌のアナウンスから聞き馴染みはあるが、ルーティン化した生活の中から捉えれば各駅も急行も変わらない。飲みはいつも会社近辺でやる。ときたま行きつけのママの愛想が尽きるので、そうなったら電車で遠出をする。と言ってもふた駅離れた飲み屋街へ移動するだけだ。なので、とそんなことを言っている余裕はない。男はピクドグラムの案内に従い小走りで移動する。駅構内の公衆トイレに駆け込んだ。

なんとか間に合った。出社時間に余裕はある。気長に天啓を待つとしようじゃあないか。男は便座に尻を落とし、碇ゲンドウの如く顔をうずめる。ふう、と安堵の息を漏らすと入り口の方から忙しない足音が聞こえてきた。急に足音が止まったと思うと、洗面台に痰を吐き捨てた。その後の咳払いのがなり声から、お年を召されたおじいであることが分かった。汚ねえ。どうして朝からこんな不快を抱かなきゃならねえんだ。

どうやらそいつは俺の右隣の個室に入ったようだ。そいつの行動を音を頼りに文字起こしするとこうなる。扉を開けて鍵を閉める。ズボンを落ろし、尻をつける。ブリュリュと音を立てバルブを締める。汚ねえな。音が汚ねえ。一連の流れを終えるまで5秒とかかっていない。その上このワンショットに全てのタマを使い切ったようだ。その証拠におじいの個室でウォシュレットが作動し始めた。こんなに溜めておいてなぜ一度洗面器で立ち止まったんだ、こいつは。漏れそうだから走ってきたんじゃないのか?男は右の壁に視線を向ける。

_なんだこれは。

男はとあるものに気づいた。右隣の壁面にあるウォシュレットボタン。そのちょうど上にある小さなボタン。地の色と同化して気づかなかった。ちょうど小指の先っちょで押すとピッタリフィットするほど小さい。なんだこのボタンは。男は最近行った公衆トイレの内装を頭に思い浮かべる。いいや、こんなボタンは今までにない。見たことがない。なんなんだこれは。男はおそるおそるボタンを押してみる。何も起きないじゃないか。指を離さずそのまま数秒が経った。何も起きないじゃないか。ボタンから指を離そうとしたその刹那、隣の個室から「ヌあッ」っとやや大きい声が発せられた。あのおじいの声だ。男は自分のしている行為の本質にすぐにたどり着いた。ウォシュレットの圧迫された水の音がありえないほど大きく響いている。まるで真夏の木かげで鳴いているセミのように。

ボタンを離すと水圧が元に戻った。ベルトの重みでズボンが垂れ下がる。朝にコロコロで埃を落としたばかりなのに、床に落ちていることに気付きもしない。はいトントントン、トントントン、トントントントントントントン。337拍子のリズムでボタンを押す。最後のトントントンに重なっておじいの声が「あッあッあッ」とこだましたので、男は自らの行いに確信を得た。どうやらこのボタンには、隣のウォシュレットの水圧をリズミカルに操作できる機能があるようだ。

ようし、長押しだ。男は再びボタンを長押しする。個室の壁に笑顔を振り撒く中年の男。当初の用などそっちのけで子どものような悪戯にいそしむ中年の男。だんだんと、音が大きくなってゆく。水の勢いがクレシェンドに増していることが分かる。怒気のこもったおじいの「クソぅ」という声が発せられた。男はついに指を離し、この遊びを終わりにした。

さあて、会社に行こうとするか。男は用を済ませ、ウォシュレットのボタンを押した。機械が作動し始める。左隣の個室で、トイレットペーパーをカランコロンと捲り出す音が響いた。

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