9月の散文


もう10月中旬じゃが……?
なんなら下旬一歩手前じゃが???

そこらへんのチラ裏に書いていたものまとめ


〇性癖に貴賎なし


というか、全部卑しいよね。

崇高さってのはいわゆる人間性の欠落でしょ?

七つの大罪が人を人たらしめる要因だとして、それらを削ぎ落とした形を貴ぶのであれば、それはもはや人ではない。それは神様とかの在り方だ。それも唯一神系。

多神教はむしろ欠点だらけなのでまぁうん。
ギリシャとか日本の神様は性癖の見本市だからね。

いやでも、イエスくん家のお父さん処女懐胎させるようなエッジの効いた性癖かましてるんだよなぁ……。

欠点を人間性と称するのであれば、なにかしらの欠点を持ち、時としてそれをまるで強調するかのように知らしめる多神教の神たちは、その側面においては人に寄り添うことのできる存在となる。

逆に、あらゆる側面において人との隔絶を示す唯一の神は、人に決して寄り添わないことを教えてくれる。

つまりは性癖を語りあえることこそが人の強みなのだろう。

うん? うん。うん……?



〇七つの大罪について

厨二達御用達のテーマである七つの大罪。擦られ続けているだけあって、うむうむなるほど……と唸る程度にはいいテーマだ。七つの悪徳と対になる美徳があるのもいい。

さて、みなさんは『新しい七つの大罪』をご存知だろうか?

2008年にバチカンにて発表されたモノだ。(結構前やね……)

既存の七つの大罪が、個々人に焦点が向けられていたのに対して、こちらは人類や社会に対する悪徳を示したモノとなる。

では、それらを見ていこう。

・遺伝子改造
・人体実験
・環境汚染
・社会的不公正
・人を貧乏にさせる事
・鼻持ちならない程金持ちになる事
・麻薬中毒

…………お、おう。
随分とまぁ世俗的よな。そしていやに具体的だ。

なんちゅーか、パッとしないね。
具体的なのにね。むしろ具体的過ぎると言いますかね?

いやっ! 言わんとすることはわかるんよ? どれも不徳よなぁ!? 許せんよなぁッ!!? あ゛ぁ゛???(義憤)

……だけど、こう、ちょっと範囲や規模がデカかったり、個人にはどうしようもなかったり、それこそテレビ画面の向こう側みたいな話ばかりなので、イマイチ飲み込めない。

『七つの大罪』というテーマが持つ厳めしさが揺らぐ。元ネタが単語でそれぞれ構成されているのに対して、バランスが取れていないと言いますかね?

それこそ、元ネタのほうは対義が存在したのに、こっちはそうはならんしなぁ……。

ヒューマンどもの歴史を冗長と呆れるか、浅薄だと貶すか、それは人それぞれではあるだろうが、それでも、積み重ねたモノがあり、それによって形成された文化があり、発展した技術がそこにはあった。

獣の延長だった七つの悪徳を否定したその先にあったのは、万物の霊長を騙って驕る存在たち。ことここに至って神の領域に踏み込もうとする有り様は見ていて痛々しく、滑稽ですらあった。そのくせ、周囲を見やればそこには満足に制御できておらず日々歪みを蓄えていく世界が目に映るばかり。

ぶくぶくと膨れ上がった人類という総体が抱えた罪は細分化され、複合化され、個々人の抱える獣の悪徳で示すには複雑になり過ぎた。だから、それを指摘するには一つの言葉では足りなくて、内包された罪が多過ぎるが故に対義を当てはめることも難しくなった。だから、具体的に――特に目を向けるべき人類の悪徳を挙げ連ねたのかもしれない。

そういうことなのかなーとか、そんな解釈をしてみる。

とかとか、そんな感じで一つ。


〇ちょいと前にモダン神決定戦を見直していて

リビエンに対して後手でスキップしてあえて執政を落としにいく。

という戦略を見て「後手番一手損執政落とし!」とかそんなことを思いついた。


〇思い付きの言葉遊びメモ


シャムソーセージ

…………アカンやろ。

あるとしたらスプラッター系ホラーかなぁ?


〇チラと見た言葉に対する詰り

チャレンジドという言葉、言葉に対する印象を着替えて捨てているだけだよなーと、そう思った。

結局のところ、人の価値観を変えないと意味が無くて、そのためには社会そのものの変革が必要なのだろうけれど、まぁ無理そうよなぁ……。

最近、いわゆるVRMMOモノの作品をチラホラと嗜んでいてふと思ったのだけれど、そういった場所が現実として取って代われば、そういった身体的な差異によるモノなんて誰も気にしなくなるのかなと、そう思った。

でも、多分、身体的能力が関係無くなれば、今度は思考能力とかの差異に対する比較が起きるんだろうなーとも思う。

人は比較の生き物だからね。仕方ないね。仕方ないで済ますな。


〇作者の罪は作品を悪たらしめるのか?

まー、時と場合によるよね。

実際、やらかした人の作品やらに触れるのを躊躇う瞬間はあるし、全然どうでもいいと思う時もある。

在り方に対する感じ取り方の問題だとは思う。

特に直近だと芸能関連がアレな感じだ。

ただまー、それこそソレは昔からアレだと言われていて、それでも見過ごされていて、誰も彼もが見て見ぬ振りをしていたのだから、なんというか、どうしてこのタイミングで騒ぐのかねー? と、なんかどうでもいい思惑とかあるんかねー?

まー、アレに関しては、私はそもそもそこまで興味関心が向いていなかった界隈なので、特にコメントが出ない。ただまぁ、それから生み出された諸々の芸能関連(特に楽曲や、それを作るために関わった人々)を否定するのも違う、とは思うけれど、それは結局のところどこまでも他人事だからそう言えているだけな気もする。


小説家は自殺するモノで、芸人は暴力団と関係があるモノで、ミュージシャンはドラッグを嗜むモノであり、芸能は枕の話題に事欠かない、といった偏見が根付いている。少なくとも、私には。

一部の存在が取り沙汰されているだけなのに、まるでそれそれらにとって普遍の在り方であるかのように受け入れられているのは、どうなんでしょうね。

そのせいで、有名な芸人が暴力団との関係でしょっぴかれていたときは「え、なんで今さら?」と思ったり、ミュージシャンが薬物違法所持でお縄になっていても「そっかー」で済む。あまつさえ、擁護するような人が出てくる。

どちらかと言えば、そういうのを嬉々として取り上げる記者とか報道関係のほうが反吐が出そうなほどに気色悪い。

人類はだいたいゴミなので、他人の不幸を楽しめる。娯楽として消費できる。それで盛り上がることができる。やってんねぇ!


結局のところ、生み出された物生み出した者の繋がりはどうしても切れないモノだ。そこに関連はあり、それはなくならない。そのことに意味を見出す権利は観測者側に委ねられる。

世界平和を願い歌ったミュージシャンが家庭では妻や子供に暴力を振るっていたという流言がされた。その真偽がどうであれ、その可能性はあるということが脳裏を過ぎる。そうなったとき、果たしてその歌を私たちは素直な気持ちで聴き続けられるのだろうか?

ラブソングを謳った誰かが不倫をしたとして、その曲の輝きは翳るのだろうか?


私の結論としては、他人事であれば関係なく楽しめるのだろうと、そう思う。


アクタージュの連載打ち切りは「あーあ」で済むし、ジョニデのDV裁判を知っても『ジャック・スパロウ』のキャラクター性やその演技を楽しむ気持ちに邪念は入らない。(まぁ、ジョニデ裁判は相手側のアレがボロボロと出てきてむしろジョニデ側が被害者みたいな流れになったらしいが)

生み出された物生み出した者の繋がりそのものに意味を見出さないのであれば、それは至極どうでもいいこととして――歯牙に懸けることすらなくなるのだ。

そこにあるのは第三者視点でしかない。いや、そこにすら届かない。
だって、見てすらいないのだから。

結局のところ、生み出された物に罪はないのだ。
それはとても当たり前なことで、論ずるまでもないこと。

それでも、生み出した者の罪が波及することはある。
それは作品に限らず、人の親と子にも当てはまることがある。先祖と子孫に当て嵌められることがある。

……そこまで行くと、なんかアレな話になるので、この話はここで終わり。


戦争は悪いことですか? 人殺しは悪いことですか?
人には戦争の歴史があります。その歴史を持つ存在と関連する私たちは、どうなのでしょうか? 関係ないのでしょうか? 当時とは価値観も、情勢も、何もかもが違うのに、それを正しかったと、間違っていたと、今の立場で言えるのでしょうか?

当事者がいなくなり、歴史となりて初めてそれは客観性を確立する。
否、主観性を失うのだ。客観性の確立はその副次作用に過ぎない。
主観という視点が削がれることによってそれはただの事実になる。
残存したただの事実を――主観性を失われたモノの是非を問うことは不可能であり、であるならば我々は主観である「今」を見て、考えなければならない。

少なくとも、生み出された物生れ落ちた結果に、それらが生まれたことが間違いではないと、そう言えるように。


話がまとまっておらんね。終わり。



〇キングダムハーツに対するふとした回顧

最初、外国製のゲームだと思っていた。

初プレイが無印のファイナルミックス版だったのと、ディズニーが関わっていたのが主な原因だと思われる。

英語音声が特に好きではなかったけれど、音声変更ないのと「まぁ外国のゲームだし……」とその点については渋々やっていた記憶がある。ゲーム自体はかなり面白かったので、その程度はやめる理由とはならなかった。

なので、をプレイした際に日本語で話されてめちゃくちゃ驚いた。(当時、同級生から借りたⅡは無印版だったのだ)

ファイナルミックス版でもさ、日本語音声実装すれば良かっただろ。いやほんとなんで英語だけにした? そういうのどうかと思うよ?

ついでに言うと、ロクサスで始まるので「誰!?」ともなった。

ナミネとかにもマジで誰? ってなった。

ソラはなんか変な卵に入っていたしよォ……。いきなりXIII機関とか言われるし、なんかすでに半分ぐらい死んでるしマジでなに……なんなの?

文句タラタラやな。

でもまぁ、COMプレイしていないのが悪いね。悪いのか? ナンバリング的に正しいと思うだろ! PS2で1作目出して、2作目をGBAで出して、3作目(ナンバリングは2)をPS2で出したスクエニサイドにも問題あるだろ! なんで1度任天堂挟んだんだよ!!!

358/2 DaysをDSで出したと思ったら、BbSはPSPだし、3Dは3DSだし、コーデッドは携帯ゲーだし、当時キレた記憶あるわ。いろんな機種に手ぇ伸ばし過ぎだろうが!!!!!!

冷静に考えると完全版商法もわりと酷い。なにより完全版のファイナルミックス版が英語音声のみなのが1番不満だった(再燃)

BbSアクアさんは求めていたお姉さんキャラだったので非常にテンション上がっていたのを思い出す。

カイリナミネシオンもたいへん可愛くて、萌え豚はたいへん萌え豚していたのだけれど、それでもお姉さんキャラを求めていた若輩の身としては、BbSは求めていたモノをお出しされた気分だった。

358/2 Daysはストーリー良かったしアクションもそこそこ良かったのだけれど、どうしても携帯機故の画面の狭苦しさがありその点が辛い。DSなのでどうしてもグラに限度がある。キンハーといえばグラがいい、みたいなところもあったのでそこがちょいと不満だったりもしたわけだ。総合的には良作でした! と言えるのだけれど、どうしてもグラフィックが喉に引っかかる魚の小骨。その点、BbSはPSPなのでグラもそれなりに良くてなー。

でも、携帯機で出すのやめない? とは思った。

RE:Coded は正直ダメだった。く、苦痛……。
た、楽しくねぇ……。

キンハーはストーリーも楽しむ上でかなり重要なのだけれど、やっていることがこう……引き伸ばしとでも言いますかね? 掘った穴を埋めて、また掘らされている気分だった。

3D、同上。ネクにまた会えて嬉しい。

携帯機で出すのやめません?

で、正直、がちょっとアレだったので、こう、の期待がアレなのだけれど、大丈夫ですかね……。

Ⅲは、ダークシーカー編の完結と銘打たれていたけれど、完結ならもう少しその部分を押し出して欲しかったという気持ちがある。すげぇスッキリしない。

様々なディズニーワールドを巡るという、そういったキングダムハーツらしさが強過ぎて、バランスが悪かったという印象があるわけですよ。

遠回りをさせるために遠回りをさせられている感が強い。初代の「探すために巡る」と同じではあるはずなのに、なにが違かったんだろうね。

歴代のキャラが集合するのも、最終決戦に詰め込み過ぎじゃないかなーとかとか。ワールドを巡るのと同じぐらいのボリュームで、もう少し丁寧に話を展開して欲しかったなー。

シオンの復活とか、テラヴェントゥスアクアの再会でテンションは上がったけれど、そこで打ち止め、みたいな。

ソシャゲは一切触ってないんよなー。
どうしてもあのアバターが苦手でなー。とても触る気になれなかった。


なんていうか、話を続けるために世界を無理に拡張させている感じがあって、辛いぜ。

無印やをやったときのあのワクワク感が好きだったのかなー。
その頃はまだまだ謎が多くて、だからこそ、それを知るためにワールドを巡ることに違和感がなかった。

もワールドを巡るのが楽しかったというのはあるけれど、やっぱり「遠回り」の感覚が強くて、完全にはのめり込めなかった。


あーいやだいやだ。不満ばかりじゃないか。

でも、新作が出たら買うなー。

スマホとかで出されたら多分買わないけれど。
小さい画面が楽しいゲームじゃないでしょ。

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