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「映画館の体験」は劣化しているのではないか

映画館は一方的に映像享受する空間である。

私が今日書きたいのは「映画館の施設としての体験」の劣化についてだ。

年が明けてすぐの頃、私は偶然、映画館を長らく経営している人たちと食事をする機会あった。その日はもっぱら「2019年の年間興行収入が2000年以降過去最高であった」と「2020年の正月興行の話題」で持ちきりだった。

興行業界には、大きな山場が2つある。

1つは子供たちが夏休みになる「夏興行」。子どもや若者をターゲットとしたポケモンやドラえもんといったアニメ映画や漫画原作の映画作品が多く公開される。もう1つが「正月興行」だ。昭和の時代から、どちらも映画館は家族連れや若者たちで賑わう。

「正月映画といえば、寅さんだ」と彼らは口を揃えて言った。

それには訳がある。私が食事をしたときは、2019年12月中旬に松竹より「男はつらいよ」シリーズの第50作目となる新作『男はつらいよ おかえり寅さん 』が公開されたばかりだった。

「この間さ、松竹(配給会社)の人に「おたくの映画館は拍手起きてますか?」って聞かれて、見に行ったらさ、実際拍手が起きててびっくりしたんだよ」

と、映画館の支配人が言っていた。公開してからしばらく経つが、未だに年配層を中心に満員御礼が続いていており、しかも高確率で、エンドロールのあとに自発的な拍手が起きるのだという。

「男はつらいよ」は、1969年に第1作目が公開され、1997年の第49作目まで主演を渥美清がずっと「寅さん」を演じていた。毎年正月に上映され、正月の風物詩となっていった。

70年代から90年代の日本の正月興行をつくってきた。といっても過言ではないだろう。

1996年に渥美清さんの死去によって製作が止まっていたが、2019年の冬に、寅さんの甥を主人公にした50作目が製作されたのだ。寅さんが登場する回想シーンは、過去作品を4Kデジタル修復し、20年ぶりの新作に多くの人が詰め寄っているという。

私は日本酒をちまちま飲みながら、ふんふんと彼らの過去の正月興行談義を聞いていた。

どうやら寅さんは人気過ぎて、扉が閉まらなくなるくらい人が入っており、当時は予約制という概念がないので、立ち見でも鑑賞ができたんだそうだ。

「あの頃はさ、映画を観ることそのものよりも、映画館で寅さんを観たということに意味があったんだよな。」

「立ち見の人たちを、「前に詰めてください~」なんて押し込んでさ」

「そうそう、それが映画館側の勲章だったんだよな」

「いやあ、今になっちゃ、お客様のためでもなんでもなかったよなあ」

正月にしか味わえない映画体験がそこにはあった。当時は、公開時に映画館に行かなければ、映画を見ることは基本的にできなかった。テレビで放映されるかもわからないし、レンタルビデオ屋も希少な時代だ。

映像を即時的に享受すること自体に価値があった。

私は羨ましくなった。彼らが体験していた「映画館の体験」は私にはない。レンタルビデオ屋のサービスの充実やインターネットの利便性と引き換えに、体に入らない体験と化してしまったのだ。

「やっぱりスター・ウォーズ。客入りそこそこで止まっちゃったな」

と、ふと誰かが言った。スター・ウォーズシリーズは1977年に公開され、42年間不動の人気を確立してきた。その日は、シリーズ最終章『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』が公開されて2週間ほどだった。

映画関係者の中で、シリーズ最終章は2019年公開映画の中でも、期待が大きい作品の1つだったが、思いの外動員が伸びていないそうだ。

「さかかなさんは、スターウォーズ見た?」

「あー…、実は1作も見たことがないんですよね……」

「え!? ほんとに!?」

映画好きな人と話すとたまにある、歯切れの悪い会話。そうなのだ。怒られるのを承知でいうと、正直、アナキンもスカイウォーカーもジェダイもよくわからない。

「俺らのときは、スター・ウォーズ、ほんと衝撃だったもんなあ」

「確かに、当時は新作映画見るたびにワクワクしたもんなあ」

「あれ?さかかなさん、ジュラシックパークは映画館で見た?」

「ターミネターは?マトリックスは?」

私は首を横に振る。

私がスター・ウォーズを見ない理由はいくつかあるが、1つは既視感が強いからだ。どこかで見たことあるような映像に感じてしまうのだ。本来はスター・ウォーズのほうが元相なのだろうけども。

私が「映画」を意識できるようになったときには、すでに映像に親しみ過ぎていた。

去年の正月に、ブレードランナーをNetflixで見たときに「これを見るのは今じゃない」という感覚が私の中でうずいた。決して今の映画作品の映像技術や作品性が劣っているというわけではない。

ただ彼らが当時映画館で映画を見た類の感動は得られないのだ。

私は故に、時々思うのだ。90年代の興行が輝かしいのは、映画館でないと味わえない体験が映画館にあったからではないだろうかと。

私は映画館で映画を見るのが好きだ。

2020年の今「映画館で映画を見る」が成り立つ世界だ。

一昔前なら「頭痛が痛い」のような誤文扱いだったのではないだろうか。Netflixを始めとする動画配信サービスが台頭してきた世界では、映画を見るのは映画館だけでなくなった。映画は家でも、電車の中でも、お風呂の中でも見れる存在となった。

新作が出て、半年後に映画を自分たちの手のひらの中で見ることができる世界になるなんて誰が想像していただろうか。

彼らは、当時の映画館には「映画館でないと得られない体験」があったと語る。それは、映画を見る行為そのものであり、能動的な行動に対する一種の優越感だった。

また、一方でその体験には、きっと当時の彼らは気づいてなかったとは思うが、その時代にしか得られない映像技術に対する驚きと感動があったはずだ。

嬉しくも、悲しくも、私は映画を彼らよりもずっと簡単に手に入るように鳴ってしまっている。

私は映画館で映画を見るのが好きだ。

大勢の知らない人たちが、同じ場所に集められ、同じ方向を向き、同じ映像を享受する。そして、物語という虚構が終了すると、一人一人が思い思いに物語を咀嚼する。

映画館は一方的に映像享受する空間である。

映画館は変わらない。設備や環境はよくなれど、人を集めて、映像を流し、物語と映像の感動を与える。体験の本質は変わっていない。

相対的に見れば、劣化なのではないだろうか。

映画は物語である。物語は時空を超えて編集され、映像と音を与えられ、世界を生み出す。物語は、時代に併せて変化し、語り継がれ文化を醸成する。

けれど、物語を伝える媒体である映画館はどうであろうか。

今の私たちに、人を集めるだけの映画館は必要なのだろうか?

映画と映画館の主従関係はすでに終わりを告げられている。映画がインターネットサービスを介して生活に拡張されていくのか。それとも、映画館という媒体が「映画を享受する空間」として更新されていくのか。

今、映画館はその岐路に立っているのかもしれない。

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