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さとうなつみ「手向ける(二日目)」

朝は空の途中まで歩く。歩いている最中は頭の中で思考が程よく進む気がする。龍山の傾斜はなかなか急なので身体を若干前のめりにして脚を踏み出すも、山の急斜面がそれを押し返してくるようだ。歩く自分の体とそれを押し返す山の間にじわじわと熱が生まれてくるのを感じながら上へ上へと歩いた。

赤紫の鮮やかな外皮が裂けて青緑の玉が覗くクサギが青空に映える。トゲに包まれた栗の実たちが道の隅に溜まっているのも目につく。“包まれていること、中身を守るための包み=空間、空がないと中身がない”なんて取り留めもないことが頭の中をぐるぐる。

天島邸に戻ると車に乗り日入沢石仏群を目指した。佐久間で折り返し天竜川を挟んで東の山々から対岸へ渡る。

お昼を過ぎた頃に永源寺を尋ね、縁側に並んで御住職のお話を伺う。こちらを向いてお話しする御住職のすぐ後ろをのんびり散策するアナグマが、視界の隅にゆらゆらとしていた。師子窟の書の横には小さく永平寺とある。

お参りを済ませた後、御住職を尋ねて来られた森林組合のOさんとお会いできたのはなんという偶然だったのだろう。いま御住職からお聞きしたばかりのお話に登場する場所を、Oさんは一箇所づつ、丁寧に案内してくださった。

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沢沿いに静かに佇む地蔵
行き倒れの方をお祀りしたものか

毎日お会いしたり行った場所を全て書いた自分の日記はつらつらととてつもなく長いので、こちらのnoteにはその一部だけ日記より抜粋したものとその日の覚書のスケッチを合わせて残そうと思う。

「私は無宗教者だし家が信心深い訳でもない、合理主義の現代社会で“祈る”ということがどんな意味をもつのか。“祈る”ことはいったいどういうことなのか。石を掘って祈る。道端でそれを拝む。手を合わせる人々は何を思っているのだろうって私は不思議なんです。

でもそう思いながらも、そういったものが目の前に現れると、私も自然と手を合わせたくなってしまうんです。」

Oさんは「あぁそれならあなたに見せたいものがある」と言ってまた別の場所を見せてくださった。

こういった場所はこの辺りだと道路沿いにはあまり見かけない。秋葉街道や塩の道という歩道が龍山の東側の山脈にある。石仏のある場所は時代的にも街道沿いになるがその道も今は使われない為に整備も行き届いているとは言い難く、徐々にその道も石像達も埋もれていってしまうのだそうだ。

役之行者の石像に詳しい方がいたがその方はもう亡くなってしまったという。「もっとよく話を聞いておけばよかった。」とOさん。

ある人が「この龍山はもう小学校もないし、いつかはなくなっていく場所なんです」と言っていたのを思い出した。

「ここでのお祭りもいつか消えていくのを僕たちが看取る気持ちで調査しているんです」と話す別の友人の言葉も。

まだここへ来たばかりの通りすがりのような旅人の自分は何も分からないに等しいけれど、こういった場所に魅かれて外部からやってきた自分にまずできることは、出来る限り多くのお話をお聞きして想像し、思いを馳せること。心を手向けるような気持ちでその像を見ること。

もとの状態に戻ろうとする古道まわりの植物たちや、空高く伸びた植林の木々、風化していく石仏を見ていると、人間の一生なんて本当に短くて一瞬だと思う。人間の、自分の小ささを感じる。


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日入沢石仏群の横から奥へ伸びていた古道は
秋葉街道だったと後で知った