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旭堂南湖「なぜ河津町を選んだのか」(1日目)

はじめまして。
旭堂南湖(きょくどうなんこ)と申します。
講談師です。
講談とは日本の伝統話芸です。

ツイッターをやっています。
https://twitter.com/nanko_kyokudou
ホームページもあります。
https://nanko.amebaownd.com/

1月10日(月)から16日(日)まで、アーツカウンシルしずおか主催の「マイクロ・アート・ワーケーション」に参加します。
私は旅人。
行き先は静岡県河津町。
河津町で、地域の紹介や住民の皆様との交流など、色々調整して下さるホストは、Working Space Bagatelleの和田さんです。

一、なぜ河津町を選んだのか。

私の生まれは兵庫県です。
1歳の時に、滋賀県に引っ越しました。
高校卒業まで滋賀県で暮らし、卒業と同時に大阪に引っ越しました。
大阪芸術大学に通い、同大学院芸術文化研究科修士課程修了。
大学時代は芸術について専門的に学びました。
卒業後、三代目旭堂南陵に入門。
プロの講談師になって23年目です。
現在は大阪市在住。
大阪を中心に活動してます。
東京やその他の地域に行って、講談をすることもあります。

小学生の息子に、
「静岡県に一週間行ってくる」
と言いますと、
「なにしに行くの?」
「温泉入ってブラブラする」
「ニートやん」
と言われましたが、ニートじゃなくて、「マイクロ・アート・ワーケーション」の旅人です。

さて、今日は1月10日、月曜日。
毎週、月曜日はラジオ大阪の番組に出演しています。
午後2時から約3時間。楽しいトークと素敵な音楽が流れる生放送です。

ラジオのパーソナリティは高岡美樹さん。

高岡さんの「行ってらっしゃい」の言葉を背に受け、大阪環状線に乗ります。
新大阪から新幹線に乗って、静岡県に向かいます。

二、静岡県の思い出

年に数回、東京に行くので、その時、必ず静岡県を通過します。
それぐらいです。

三、他にないのか、静岡県の思い出

二十年近く前、落語家の先輩が大井川鉄道の近くで、地域寄席をしていて、私も出番を頂いて、静岡県に行きました。
SL機関車に乗ったこと、温泉に入ったこと、夜空を見上げると満天の星空が輝いていたこと、などを覚えています。

五年ぐらい前、「映画 講談 難波戦記 ー紅蓮の猛将ー」に出演しました。
この映画を撮った、勝呂監督が伊豆市の出身で、伊豆市で映画上映会&講談会があり、
伊豆市に行きました。
山の上から富士山が見えたこと、伊豆の方に親切にして頂いたことを覚えています。

その他で言うと、富士山に二度登ったことがあります。

四、富士山の思い出(講談)

富士山に登ったことがある方はいますか?
こんな言葉がございます。
「富士山に登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」
富士山は日本一のお山。世界遺産にも登録されている。日本に住んでいるならば、一度は登っておきたい。で、一度登ると、標高三七七六メートルもある。やはり大変ですから気がつくんですね。富士山は登る山じゃない。見る山なんだ。
そこで、
「富士山に登らぬ馬鹿 二度登る馬鹿」
こんなことを言うそうですね。

実は私、二度登る馬鹿でして。最初に登ったのが四十年以上前、五歳のとき。父親が登山好きで、毎年春休み、夏休みには、登山仲間十数人とキャンプへ行って、テントで寝泊まりをして、登山をしておりました。日本百名山というのがありますが、いろんな山に登りました。

私が五歳のとき、富士山に登ることになり、五合目まで車で行きました。今もそうなんですが、五合目までは車やバスで行くことができます。お店もいっぱいありまして非常に賑やか。到着してすぐに登山を始めてはいけません。体が高地に順応していませんから高山病にかかります。五合目で小一時間ほど軽い準備体操などをしながら体を慣らしていくんです。一時間もしますとすっかり高地に順応して、
「おらあ、富士山に登るぜよ」
高知(高地)弁になりましてね。
さて一歩一歩、歩きながら登っていく。六合目、七合目、八合目まできましたが空気が薄い。しんどい。もう歩けないとへたばりました。父親が、
「根性やで」
と言いました。昭和の時代ですからよく「根性」という言葉を使いました。私は、
「根性ないねん」
「それでも根性やで」
「もう一歩も歩けん」
そのまま眠ってしまいました。
目を覚ますと富士山頂に立っていました。父親が八合目からおぶって登ったんですね。五歳の子供、結構重いですよ。二〇キロぐらいあります。それをおぶって登るのは大変です。すごい父親です。
山頂ではビュービューと冷たい風が吹いている。空には星がきらめき、目の前には雲海が広がっている。まるで綿菓子のよう。空がうっすら明るくなってくる。雲海のズーッと向こうに小さな白い光が見えたかと思うと、真っ赤な太陽が八方に光を放ちながら顔を出した。雲海が朝日を浴びて七色に染まります。これを眺めていた大勢の人々が、
「ワーーーッ」
という歓声を上げた。あちらこちらで、
「ばんざーい。ばんざーい」
という声。拍手が沸き起こります。
登っている途中、あまりのしんどさに富士山のことが嫌いになったけど、この景色は登らないと見ることができない。登ってよかった。この景色を見たことは人生の宝物になりました。
帰りは砂走りといいまして、滑るように下山しました。
麓の温泉に浸かりました。源泉かけ流しの露天風呂です。ここから富士山が見えているんです。あの山に登ったのか。さっきまであのいただ上に立っていたのか。我ながら頑張ったなあと思いました。
でも、自力で登ったのは八合目までなんですね。それが心に引っかかっておりました。
  
先年、父親がこの世を去りましたが、亡くなる前、闘病中の父親に、
「どこか行きたいところある?」
と聞きますと、
「もう一度、富士山に登りたい」
と答えました。
結局、父親は二度目の富士登山は叶いませんでしたが、私ももう一度、今度は自分の足で富士山に登ってみたいと思いました。
日頃、あまり運動をしていませんので、事前に登山の練習をしようと近くの山に登りに行きました。登った山が天保山。日本一低い山ですがね。標高四・五メートル。すぐに頂上に着きます。何の練習にもならないんですが。
 いつか登りたいと思っていても、体力は年々落ちていきます。三年前、
「チャレンジするなら今年だ」
と決心して、いよいよ富士山へ登ることになりました。
五合目まではバスで向かいます。一時間ほどウロウロして体を慣らしまして、
「おらあ、富士山に登るぜよ」
これ、さっきやりましたかね。六合目、七合目、八合目。ここまではなんとか登りました。しかし、ここからがきついのです。一歩も歩くことができません。泣きたくなりました。膝は笑っているんですがね。
荷物が重いのかなあ。余計なものを持ってないか、リュックサックの中を見ると、麩が入っているんです。これが余計でした。なぜ麩を持ってきたかと申しますと、「麩、持参」(富士山)というシャレのためです。
「ああ、もう一歩も歩けんわ」
八合目でへたばってしまいました。すると、後ろから、
「根性やで」
父親の声が聞こえました。
「えっ」
と驚いて振り返ってみたが誰もいない。そらそうです。父親はもう亡くなっているんですから。
そして、急に胸がジワーッと温かくなりました。
これは何かというと、五歳のとき、父親におぶわれて頂上まで登った。そのときの父親の背中のぬくもりを突然思い出したのです。私は、
「根性やで」
と言いながら立ち上がりました。どういうわけかさっきより体が楽になった。まるで父親が背中を押してくれているようです。一歩一歩、歩いて富士山の頂上に立ちました。五歳のときに見たあの風景。目の前に同じ景色が広がっていて誠に美しい。
空に向かって、
「ありがとう」
と呟きました。
 
(終)

さて、現在は新幹線でこの文章を書いています。

一、なぜ河津町を選んだのか。

この答えをまだ書いておりませんでした。

おっと、新幹線がそろそろ熱海に着きそうです。
ここで降りて、今日は熱海のホテルに泊まります。

「河津町に行かんのんかい!」
というツッコミが聞こえて来そうですが、丁度時間になりましたので、この続きはまた明日。

1/15(土)に「講談と怪談」のイベントがあります。お近くの方はお越し下さい。

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