Ash 熱海2日目 「ハジヲシレ」
今朝は、山間にある酵素風呂、妙楽湯へ。
以前にテレビで、なぜ文豪は温泉に滞在して作品を書いていたのか、という問いに「湯につかってボーッとしているときに、アイディアがまとまりやすい」という説明がされているのを観て「本当かよ」と眉唾に思っていたのですが、今朝、酵素温泉に首までつかって、ボーッとしていたらめちゃめちゃアイディアが降ってきて!!!?となりました。
温泉文学、馬鹿にできない。(したことはないですが)
今回の滞在先を温泉地・熱海にした理由は「書きたいものがあるから」です。はたしてまとまるかは謎ですが、やるだけやってみます。
というわけで、本日からは滞在記が短編小説風になります。はじまりはじまり。
(唐突だなあ)
第一夜
チェックインするときに、5泊ですね?と念をおされて「はい」と答えると、10円玉を5枚渡された。
前払いの宿泊代はクレジットカードで払ったので、釣りがくるはずもなく、怪訝な顔をしていると、受付の女性が黒目がちの大きな目で私を見た。
「22時きっかりにそれを入れて、ゼロを4回、まわしてください。話ができるのは3分だけです」
「話? だれと?」
「さあ」
今一つ要領を得ない。女性は木蓮のようににっこりと笑うだけで、その先を説明するつもりはなさそうだった。
部屋に向かう途中で、渡り廊下の隅にピンク色の電話を見かけた。10円を入れて通話するタイプのもので、前時代的なフォルムが懐かしい。
ふと手のひらを広げて渡された5つの10円玉をしげしげと眺める。
まさかな。
浮かんだ想像をフン、と鼻で吹き飛ばし、部屋に荷物を入れると、打ち合わせの場所へと急いだ。
打ち合わせはスムーズに終了し、そのあとで軽く取引先の担当者と飲んだ。
相手が連れて行ってくれたワインバーは雰囲気が良く、東京から移住したという女性ソムリエが一人で切り回していた。
「ヤマモトさん、恥を知れってどういうときにいいますか?」
若い担当者は気に入っているというアルザスのワインを口に運びながら、聞いてくる。
「言ったことないよ。そんなこと言う奴本当にいるの?」
「こないだ、お客さんに言われたんです。そのとき僕も思ったんですけどね、演劇かドラマのセリフみたいだなって」
「シチュエーションは?」
「価格が見合わなかっただけなんですけど。こっちが不当に釣り上げてるみたいに思ったんすかね。 ヤマモトさんも演劇の人みたいだなあ。シチュエーションだなんて」
「だって、コメディだろ」
「ですよねえ。その話したら僕の職場で流行っちゃって、それ以来誰かが何か失敗するたびに『恥を知れ』って言うんですよ。…おっと」
彼が絶妙のタイミングでワインをこぼしたので、「恥を知れ」と突っ込んで「そうそう、そんな感じっす」と盛り上がったが、実際に口に出してみるとその語感のぎこちなさに違和感をおぼえた。
そもそも、そんな風にふわっと発声できる言葉ではないのだ。
「ハジヲシレ」
よっぽど腹に据えかねる思いをして、腹圧がかかっていないと、この言葉を噛まずに相手に投げつけることはできない。
「あいをいえ」
噛まないように母音だけを抜き出して発声してみると、一転してなんだかハッピーな語感になるのだった。
「なんすか、それ」
「おまじないみたいなもんだよ」
「からまれない?」
「いや、かまない」
「噛み合ってないっす」
彼はゲラゲラ笑うと、「あいおいえ」と3回つぶやいて「僕童顔だからなめられるんですよねー」とグラスに残ったワインをあおった。
宿にもどって、時計を見ると21時45分を回ったところだった。
「22時から3分間、だったな」
旅先で酒が入っていることもあり、何でも試してやれ、という気分になっていた。
渡り廊下には小休憩ができるスペースが設けてあり、あの電話はその空間に特に浮き立つこともなく置いてあった。
10円玉を入れると、ツー、と音がした。
0の穴に指を入れて、時計回りに回して戻るのを待つ。それを4度繰り返す。0の穴は、ほぼ一周分回すので戻ってくるのに1.8秒もかかる。のんびりした時代だったんだな、昭和は。 などと考えていると、電話口の向こうが呼び出し音に変わり、少しだけ緊張する。
「もしもし」
呼び出し音を唐突に割いて、話し手の声が耳を打ったとき、その衝撃波は鼓膜を抜けて一気に体内を駆け巡った。
「もしもし」と、相手は言うが、私の声は出てこない。
「いま、熱海にいるんだね」
声は、勝手に話し始める。
「前に一緒に行ったの、覚えてる?」
忘れるわけがない。初めて一緒に旅行したんじゃないか。初めての給料で奮発して予約した海の見えるホテルの部屋から、次々と打ちあがる花火を見てはしゃぎ、酒を飲みすぎて酔い潰れてしまったのを、笑って許してくれた。
「熱海の花火は音がいいね」
たくさんの話をしたはずなのに、一番覚えているのは花火の響きを褒めた君の声だ。
今、君はどこにいるのか。
聞いても仕方のない質問が喉まで出かかって詰まり、他の言葉を遮ってしまう。その間にも、電話口のむこうで懐かしい声は喋りつづけたが、何を言っているのかよくわからなかった。
「Shame on you.」
最後に母国語でそれだけ言うと、電話は切れた。 (第二夜へ)
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