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清水玲「旅の終わりは旅の始まり」(7日目)


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日の出の時間が近づくにつれて水平線が空と海をはっきりと二分する。

チェックアウトの時間ぎりぎりまで温泉につかりながらぼんやりと海を眺める。なにもせず、ただただ海を眺めるだけの贅沢な時間。何も考えていないようで、無意識のなかで様々な思考や記憶が浮かんでは消えていく。こういう何もしない時間は、一見無駄な過ごし方のようにも思えるが、数日後あるいは数年後に突然何かと何かをつなぎ合わせ、思いもよらない作品制作のアイデアにつながったりする。

チェックアウトのあと、今回の稲取滞在のホストである荒武さんと藤田さんにお礼とおわかれのあいさつへ。荒武さんたちはオープンしたばかりの2軒目の宿「赤橙」で次の宿泊客に備えて清掃作業をしていた。

自分たちでできることは自分たちで行う。手を動かし、新たな旅人を迎え入れ、旅人との関わりから自分たちの活動にまたフィードバックしていく、そんな呼吸のような自然な力の入れ具合で、旅人と街、地元の人々とを適度につなぎ合わせていく。

「錆御納戸」「赤橙」という江戸時代の流行色から名づけられた宿の名が、街なかの民家の玄関先で目にすることができる勘亭流書体で書かれた木札の屋号のように思えてきた。

荒武さんたちの活動は、高台から稲取の街を見下ろした時に見える色とりどりのトタン屋根のように、この場所の生活に馴染み、時代の変化を受けれながらあらたな風景をつくりだしていくのだろう。

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荒武さんたちとわかれた後、街なかをぐるりと回ってもういちど細野高原に足を運んだ。

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三筋山(標高821m)から稲取港にかけて広がるなだらかな丘陵地は、伊豆が本州に衝突し陸上化した後の80万〜20万年前の火山活動によって生まれた大型火山・天城火山が作った火山斜面が侵食され残ったもの。火山活動が終わった天城山は侵食によって大きく削り取られ、最高峰の万三郎岳(標高1405m)、細野高原を取り囲む三筋山、浅間山(519m)、大峰山(493m)は侵食に耐え残った天城山の一部だという。かつての山頂は万三郎岳の南側のどこかにあり、標高は2000メートルを超える高さだったと言われている。

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深田久弥の『日本百名山』にも名を連ねる天城山は、多雨地帯であるから「雨木」、天を覆うほどに木々が茂る山だから「天木」、薬用や仏事に用いる甘茶の「甘木」が多く自生している等、山名の由来には諸説ある。

また天城の万次郎岳には万次郎、万三郎岳には万三郎、西伊豆の達磨山には万太郎という天狗三兄弟が棲み、大蛇を退治して7つの樽を滝に流したという、天城山と八丁池、河津七滝にまつわる民話があるが、それだけ印象深い山体であると同時に長い年月をかけて雨風による激しい浸食を受けてきたことを物語っているのだろう。

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滞在2日目に藤田さんと細野高原の奥地から白田硫黄坑跡まで歩いた際にも山中で岩頸らしき岩肌をいくつか見かけたが、天城山が2000メートル級の山体を維持していたらどれほどすさまじい存在感をはなっていたのだろうか。

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昨年に天城山を縦走した時に、万次郎岳から稲取方面を撮った写真を見返してみると、あらためて東伊豆町の山々の位置関係と、浸食によって大きく削り取られた地形の様子がよくわかり、今回の滞在での経験と重なる。

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細野高原には今まで何度か来たことがあったが、今回のマイクロアートワーケーションで稲取の街なかに1週間滞在したことであらためて、稲取で生活する人々にとっての水源であり、住居を雨からしのぐための屋根の材料を調達する貴重な場所であったことを実感することができた。

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湯河原の自宅に戻り、1週間分の衣服を洗濯する。干すときに手に取る服が、着ていた滞在時の時々の小さな記憶を思い出させてくれる。

荒武さんたちにいただいた、近所の方々からいただいたという大量のみかんのおすそわけをひとつひとつ丁寧にしぼり、みかんジュースにした。さわやかな酸味のある濃厚で甘いみかんジュースを飲みながら、「また行きたいね。」という子どもたちの笑顔に安堵する。

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稲取でのマイクロアートワーケーションは無事に終えたが、一昨年から継続している伊豆半島をめぐる撮影の旅は、まだあと少しだけ続く。

旅の終わりは旅の始まり。いろいろなことが落ち着いたら、また家族で稲取を訪ねたいと思う。

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