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新造真人「地球、偶然と必然による彫刻(5日目)」

ものに触れる時、私たちは、一体、何に触れているのだろう。
大切な人を抱きしめる時、私たちは、一体、何を抱きしめているのだろう。

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伊豆高原の滞在も5日目。昨日は、彫刻家である重岡建治さんのアトリエを訪れた。その体験を咀嚼するために、今日は、新しいものを多くは吸収せず、咀嚼する日にすることにした。地に足ついた伊豆半島で出会った多くの事実から、妄想を壮大に広げはじめるための日だ。

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橋立 大淀・小淀は約4000年前、大室山の溶岩流が海に流れ込んで作られた城ヶ崎海岸の一部。城ヶ崎自然研究路にある長さ60m、高さ18mの橋立吊り橋はスリル満点。つり橋の近くにある岬に降りると見事な柱状節理が見られ、柱状節理の窪みにできた大淀・小淀と呼ばれる潮溜まりがある。

参考:伊豆半島ジオパーク 

といいつつも、外に散歩に出た。これが良かった。ナイスチョイスだ。午前中は伊豆高原駅からほど近い、大淀小淀に足を運んだ。本当にナイスチョイスだった。ここは、大室山の4000年前の噴火によってできた土地で、非常にユニークな形をしている。現場を歩き、岩に手を乗せて、体を支えながら眼下に見えていた海岸に降りていく。見る。触る。この体験を通じて、地形というのも、「彫刻」として見つめることができる。

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ありとあらゆる、触れるものは、自然か無為自然か、人工か無邪気さによって形を与えられている。そのような形に、なってしまっている。風で削られ、波で削られる。最近知ったのだが、億劫という言葉の成り立ちが面白い。これは、元仏教語で、百年に一度現れる天女が岩山に舞い降りて、羽衣で頂上を撫でることによって起きる摩擦によって岩山が消滅するまでという、限りなく無限に近い時間を表しているそうだ。雨粒が岩を穿つように、悠久の時間が頑鉄とも思える巨石を削り、地形を生み出す。人類の誕生も、悠久の時によって、小さく小さく変化をして、今の我々がいる。

人間、生き物自体が、長い時間によって環境適応なのかわからないが、形をどんどんと変えていったもの、そのものである。彫刻という概念を広げていくと、面白い。固そうなもの、それだけが彫刻ではない。彫刻の原材料は。硬そうに見える石だけでも、木だけでも、金属だけでもない。一般的にはそういった硬そうなものや、現代ではアルミニウム、プラスチック、ガラスなどを材料として三次元的に表現する美術なのだろうが、悠久の時が生み出した生物や、触れることができない多くのもの、例えば抽象的な「愛」とか「破滅」というものも、時代・地域文化によってその印象というのは、彫刻さ(形作ら)れている。音楽も、時間の中に、音が切り出されている。目に見える、手で触れる。それだけが、彫刻ではないかもしれない。

ものに触れている時、私たちは、一体、何に触れているのだろう。
大切な人を抱きしめる時、私たちは、一体、何を抱きしめているのだろう。

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私は数年前から香りに興味がある。香水や、お香を日常使いすることから始め、料理にスパイスやハーブを使う。また、ちょっとしたものの水蒸気蒸留は自分でやったりもする。大学時代はわずかの期間だが、建築家坂茂さんの元で学んでいた。その経験から、建築とは、固いだけが建築ではない。彼は、紙の建築を作る。紙、だ。彼の建築は、日本の建築基準法では、彼の理想のままに建築することはできないのだが、海外では、彼の神水をそのまま表したものが多くある。紙だって建築になる。それは、素材、のことだけを行っているのではなく、それによってもたらされる紙の性質や、光の通し方、人間と構造体との間に生まれるアフォーダンスとも言えるひとつのワルツ。そういった総体や、関わりの中で生まれて来る物語。一体、建築とはなんだろうか。

そうすると、イサム・ノグチの話になる。どんどんと飛躍するが、それはもう、しょうがない。彼はアメリカ合衆国ロサンゼルス生まれの彫刻家、造園家、作庭家、インテリアデザイナー、舞台芸術家、などと世間では言われている。イサム・ノグチの作品も、坂茂、重岡さんのように世界中に散らばっている。これまでいくつか見てきたイサム・ノグチの印象でいえば、彼が作っているのは、建築とも、彫刻とも捉えられるものであり、さらに、二つだけではなく、もっと、もっと、多くの分野がそこにかぶさっている。非常に多層的な解釈が可能なのだが、そんなうすぺっらい皮を重ねた鑑賞よりも、実際に、彼の作品があるところにあしを運んで、まじまじと相対してみればいい。彼の作品を、可能な限り短い言葉で表すのなら、それは「具体化された詩」であると、私は説明する。

話を戻す。大淀小淀に足を運んで、思ったのだ。閃いた途端に、昨日のことを思い出した。つまり、昨日の重岡さんのアトリエに訪れた、作品を触った、彼の肉声で彼の話を聞くことができた。その体験は、わずかな時間で、私の奥深くまで、届いている。地球をどんどんと掘り進めれば、マントルに当たる。噴火という形で、地球の表面に溢れ出た溶岩は、地球の内側からの溢れである。つまり、城ヶ崎海岸一体というのは、その地球の溢れ出たエネルギーによって、様々な物理法則という必然。そして捉えきれないほどダイナミックな数多の偶然。偶然と必然の両輪によってもたらされた彫刻、それが地球なのではないか。

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昨日、滞在4日目は、重岡さんのアトリエで、彼から直に作品の話や、彫刻を至るまでの話、幼少期の出来事などを、たっぷり伺うことができた。

「私の彫刻は触るためにある。昔、子供を連れて美術館に行ったときに、作品をさわらないようにと施設の人に子供が叱られた。それ以来、彼は美術館を嫌がるようになった。デリケートな彫刻作品もあるのだろうけど、私の作品は、人々にたくさん触って欲しい。だからドアノブとか、蛇口とか、人が触らざる得ないようなものも考えている。私の彫刻は、触っても壊れない。強くなるように、私の作品は(構造的に)つなげている。別に壊れたっていい。」

重岡さんの彫刻には、キュビズムのようなデフォルメがあるのだが、そのことが気になり質問をした。そこには、制作における縛りと、それによって、作品が大きく影響を受けて今の彫刻、重岡さんの作風に、大きく繋がる部分を聞くことができた。

「顔が半分えぐれているようになっているのは、ある作品を作っているときに大理石に傷があった。それを取り除くように掘っているうちに顔がだんだんとえぐれてきて、こういったものが出来上がった。だから、顔にあわせて体の方にも、内側にえぐれるような形になっている。ピンチというか、縛りというか、そういったことから自分の作品が広がっていることもある」

私自身もそれを感じる。1日目の記録に「縛り」について書いたが、そういった制約というのか、そういった自分ではどうしようもできない、何か外側の力、圧力、緊張によって、作品の方向性が決まる。重岡さんの彫刻で言えば、大理石の傷。そして、壊れやすいようなものから、容易には壊れないようなものにするために、構造的につながるように彫刻を形作る。もっと話せば、たくさんの制約と、それをいかに乗り越えてきたのか、という話が聞けるのだろう。

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今日の話は、滞在3日目の話にも通ずるところがある。タイトルが、もうそのままである。「マグマの速度で南下する」実際どれほどの速度でマグマが地表を這いずり、どのような影響を、土地に、動植物に、海に、文化に与えたのか。まだ全然わからない。印象的だったのは、四千年前の噴火によって比較的新しい大地である伊豆高原。だからこそ、多くの人が集まり、アーティストが好んでこの地に住んでいるのではないか。そんな話を、伊豆高原の案内役の船本さんに聞いた。なるほど、だんだんと、時を経て、穂を進めるごとに、その意味を拾うような体験が生じる。

そして、2日目の「伊豆半島の大きさを徐々に知り、歩き方を変える」にも。歩き方、というのは、足裏による、地球の触り方とも捉えることができる。人がたくさん歩けば、そこは道ができる。獣が歩けば獣道。日々、そこを歩くこと、営みを続けること。もしくは、それを止めること。その一つ一つが、長い時を思えば、地表の風景、生態系に影響を与えている。

さらには、1日目まで遡ることができる。中沢新一さんのアースダイバーをこちらの記事では紹介しているのだが、まさにそういった話を、無意識化で意識している。おそるべし、伊豆半島。Steve JobsのStanford Universityでの伝説のスピーチの中で語られた、Conecting dotだ。点を無理に繋げるのではなく、振り返ると、繋がっていた。滞在5日目、はやくも、その線を感じる。そういったものだ。あれこれ、やり散らかしているようで、どこかで、大胆に繋がってくる。そうなると、今度は、南方熊楠の話をしたくなるのだが、続きはまた今度。もう、寝ましょう。

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我ながら、いい歩き方をしているのだな。
残り2日。どんな風になるのか、楽しみだ。


ものに触れる時、私たちは、一体、何に触れているのだろう。
大切な人を抱きしめる時、私たちは、一体、何を抱きしめているのだろう。

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触れられるときに、触れられているのは、一体、私の何なんだろうか。
抱きしめられるとき、一体、私の何を抱きしめられているのだろうか。


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