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澤隆志「ハイウエイ今昔(削れに削れて西へ&上へ)」(滞在7日目)

なにもない一日をうすぼんやりと過ごすんだろうなと思いきや、最後にデカイのが来た!富士川まち歩き。「全国路地サミット」( http://machi-roji.com/roji/ ) のキーマン 木村晃郁さん、「富士川楽座」 ( https://www.fujikawarakuza.co.jp/ ) の仕掛け人 森佑司さん、この地域がルーツで、さらなる掘り起こし&盛り上がり(断層だけに)を狙う谷津倉さん。これ以上ないくらいのメンバーにジョインさせてもらった。わー!ケーション。

某NHKのアレもあり、みなさん好きですよね。まち歩き。古地図、文化財、断層、高低差、仮説、京、江戸。もうね、今日はブラタカシ!
富士川の右岸(西)左岸(東)について、地学的(フォッサマグナ)にも日本史的(源平)にも工業的にも(周波数60Hz/50Hz)「差」がありまくるところ。その境界だらけの両岸を繋ぐことが物流、人流のキモ中のキモだったらしいのです。それが「東海道」

富士川は日本三大急流のひとつだそうで、そもそも橋なんてかけられなかった。渡し船を両岸とも少し上流から流して下流へ。結果、X時型の渡しルートで、両岸にスタート/ゴールが2点ある格好。その名残も道の位置関係として残ってるのが面白い。でもって、岸も急流でガンガン削れていくそうで、なにが起こるかというと、東海道の位置がガンガン変わっていった!! コレ知らんかった。
言葉として「旧東海道」は東西どこでもありますが、この地域は旧から何度も、「シン・東海道」「シン・東海道ver2.0」「シンシン・東海道evo」みたいに更新されていった。しかも、右岸はupされる度に高度もup。そのあおりで集落も上に移転。その、道の付け替え、嵩上げの名残が高低差を結ぶ”路地”として残っているから面白い!両岸を繋ぐ道、その耐用年数を跨ぐ路地の関係性。

「へぇ!」とか「はぁ!」とかしか言えていないのにお腹も減ったので富士川楽座に戻る。もともとSAがあったところに今でいう「道の駅」をくっつけちゃったw 2000年のオープン。文化施設もフリースペースもフードコートも土産処もラウンジもギャラリーも、当然レストランもある。しかも、酒置いてる!攻めてるなぁ。市役所時代の森さんの着想から始まって、小山を掘って、富士山大沢崩れの砂利で埋めて造成し、国の施設の隣に県の施設をブッこむ。あっぱれ。コロナ前は年間350万人の利用者があり、地域の雇用も生んでいる。
森さんは「古谿荘に親しむ会」( http://kokeiso.com/ )の会長さんでもある。日本近代史の重要人物が複雑に交わる富士川西岸の巨大建築物古谿荘(現・野間別荘)は建築家の名前も未だに不明というミステリーを抱えている。海鮮をいただきながら、これまた攻めた仮説を拝聴する。基本、一般公開は行っていないらしく、内部をじっくり見るチャンスがあれば是非参加したい。

食後、日も傾いてきたがちょっと西に遠征して蒲原宿に。このあたりになると川の影響は受けないのでメインにきっちり東海道、その南北の裏には市井の人々の路地が今でも存在し、機能している。細部の拘り、遊びが豊富な旧五十嵐邸 ( http://igarashitei.com/ ) の上級国民用の待合室には、古谿荘の主田中光顕伯爵の坐像が鎮座する。例の謎建築には5年しか住まずに蒲原に引っ越して、自然光たっぷりな五十嵐歯科医院にも治療に訪れていたんだそうです。木村さんと一緒にバシャバシャ撮影。どこを撮ってもキマる。ここに作品を設置するのはとても魅力でとてもリスキー。お屋敷に負けそう...

自転車の置いてある吉原まで谷津倉さんに送っていただく。現・国道1号。「東海道」は馬車や飛脚の頃から、富士川東西、日本の東西を効率よく速く通過するためのハイウエイであり国道も東名、新東名、新幹線も機能は同じ。新富士川橋から旅程最後の富士山をパチリ。また来ます!

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