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気紛れの雑話も底を尽きれば

「雑談の重要性が唱えられてるんですよね」

 ゼミの教授がぽつりと言った。それこそまさに雑談の一環として。大学生のわたしが思う雑談とエライ人たちの交わす雑談は甚だ異なるものであろうが、その重要性についてはよくよく理解できる。

 願ったり叶ったり、の世界ならどんなに贅沢だろう。真面目に生きれば生きるほど泣かされている気がしないか。
 そんな悲劇を半分笑って垂れ流すため、授業が終わったかつての午後に友だちと2人お茶をした。手元に揺れる薔薇香の紅茶。誰かを偲ぶ眼差しが透けるグラスのふちを伝う。
 漂う時間はだらしがなくて、刺さった棘が抜けるなど眠れる森のおとぎのように思えたが、それでもあの雑談の時間でいくらばかりか心は癒えた。終わってみれば都会の熱湯に溶けそうなほど僅かな時間。少し優雅な道草というだけなのに、わたしたちは幾度ともなく慰められた。

 どうせ暇なのは分かってる。半ば恒例みたいなものだ、いつもの場所で待ってるわ。
 あるいはそんな気持ちをもって学食でお弁当を広げる。スタンプ1つを片手間にポンと送っておけば、数分すると授業終わりの友がいそいそやってくる。そして一緒に昼食をとる。あの卵焼き、わたしのとこより甘くなさそう。よその弁当箱を見ながら20年間慣れ親しんだ故郷の味を思い出したり。
 大して深い話はしないが、そうあってこその雑談でもある。どうでも良い話を延々しているうちに、次の授業が面倒だとか、小さなこともどうでも良いなと思えることがよくあった。むしろ「まあまあ頑張ろう」と密かに笑んで解散できる。

 きっと教授のさした雑談の意義や効力なんかとだいぶ違ったものだろう。世に言われるのは「アイデアの源になる」とか「メンバーの交友を深める」とか、組織のための重要性だ。
 だけどわたしは日々の自分の活力としての雑談を、1人引きこもる生活の中でふと懐かしく恋しく思う。別の意味での“口寂しさ”というのだろうか。たった1杯だけの紅茶も小さな箱に詰めたおかずも、誰かと交わす雑談があれば栄養も増したような気だ。

 話す話題がなくなった頃、少しの憂いも消えた代わりにちょっと元気になっている。何でもない平日の午後、雑談を添えた短い時間は確かな力を持っていた。

 今日はちゃちゃっと前髪切って、ふらっとコンビニ行こうかな。


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