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心に足りていないもの

 損をしやすい性格なんじゃないかと思う。記憶の限りをたどってみると、生まれてこのかた誰かに本気で怒ったことが1度もない。

 今しがた楽しく読んでいた絵本をお友だちにぶんどられたら、黙ってちがう絵本を探しに本棚へ向かう子どもであった。
 中学時代のいじめっ子にも、悔しさとか苛立ちの類いは当時も今でも感じずにいる。目で見て分かる直接的な危害がないだけまだ良いとさえ考えていた。

 怒りはあるけどそれを表に出せない/出さない人なら結構いそうである。事情はそれぞれ、「今後の関係性を考慮し」「他人にアレコレ言うほど自分に自信がない」とかあると思う。

 だけどわたしはそもそも怒りを感じていない。「怒るだけ無駄」みたいな諦観派でもない。“喜怒哀楽” のふたつ目が欠け落ちている。
 誰かが誰かに怒るのを見て、どうしてそんなに怒っているのか不思議に思う。物語を読んでいたって怒りの場面だけはどうにも共感しない。「超ムカつく!」という、相談ではないただの愚痴なら超テキトーに聞き流す。

 強いて言うなら大抵の人がブチ切れるほどに怒るところで、わたしは代わりに涙が出た。こんなになるまで話がもつれてしまったことが悲しくて。
 親の留守中、全然言うことを聞いてくれない妹たちや、元恋人との喧嘩など。妹ならば「これヤバいやつ」と分かってくれるが、いうてまだ1年未満の恋人なんぞは当然ながらため息を吐く。

 怒ってないから謝ってほしい気持ちもない。しばらくひとりでくるまりながら泣いたら次第に落ち着ける。何ならむしろ、謝られると泣いてる自分が恥ずかしくなるほどだった。


「怒らない人」といったら聞こえは良い。穏やかでいつも心にたいそう余裕があって、些細なことを気にしない。
 順番待ちを1人くらいに抜かされたって数分過ぎれば自分の番だし、商品に何か不備があったら換えてもらえば良いだけだ。わざわざご丁寧にブチ切れるほうが難しい。

 だけどやっぱり「本気の怒り」の欠如は損。利用も搾取もされやすい。最悪わたしは騙されたって、詐欺師相手に腹を立てないかもしれない。「次からはもっと気をつけよう」と心の中で思うだけ。

 将来、我が子に怒らないのも問題である。“自分のために怒って良い” よりもっと大事な、“子どものために怒らなければいけない” ところをたくさん逃してしまいそう。

 怒らないことを美学と捉え、そんな女を “聖母” と讃える文化はある。だけどわたしは死んでも神や仏になんてなりはしない。
 そういう意味から「怒りが “心に足りていない”」と、少し空虚な言葉選びをしようと思う。


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