今も昔も綺麗なままで咲いていて
同窓会にはまともに行ったことがない。
当時から今もずっと変わらず付き合いのある親友がいて、彼女が参加し、そしてわたしもちょうど故郷に帰省していたタイミング。
かつ元恋人やいじめっ子などが参加しないと確定しており、「行っても良いか」という気が少し芽生えた会。
そんな会しか参加をしないものだから、成人の日の小学校の同窓会しか今まで行ったことがない。
高校時代のメンバーたちは年に1~2度開催しているみたいだったが、いずれの場合もわたしの中の「行く」の基準は満たさなかった。故郷にいない、元彼が参加、ただの金欠エトセトラ。
というか、そもそも思い出として終わったものには今後生涯思い出のままでいてほしい。
あの子の黒髪、さらさらとした綺麗な肌と、清廉だった身体の中も。綺麗なものには綺麗なままでいてほしい。もちろんただの理想であるから、わざわざ伝えはしないけど。
「昔の君はもういない」と知るのが同窓会である。良い意味、そして悪い意味でも。
記憶と違う姿のあの子は、わたしにとっては “あの子” じゃない。あの子に会いたくて行くんだったら、同窓会に参加するよりタイムマシンを作ったほうが確実だ。
望まれていない変化はかなしい、知りたくない。
性根は日陰で生きているから、同窓会にはそんな気持ちを持っている。
例の小学校の同窓会には、学年屈指のイケメンボーイが来なかった。女子の誰もがその再会に期待したにも関わらず。確か夕暮れの二次会にも。
「いないんだね」という声々を耳にしながら、わたしは勝手に「やはり大事なところをハズさん男だな」と感心していた。
彼は卒業間際まで好きな女の子が誰なのかを明かさなかったし、ただ1人だけ難関校の中学受験にも合格した。
そして同窓会に来なかったことで、彼は今も昔も変わらず高嶺に咲いたままである。会えそうかなと期待をしたって、そう簡単に会えるほど安いモンじゃない。
ハタチの彼がわたしの記憶と違っているかは、なお不明。だが少なくとも圧倒的な存在感はまったく変わっていなかった。来ていないのに「会いたかった!」と皆を騒がせてしまう男なんだから。
それを知れたことだけで嬉しく、わたしは密かに「来て良かった」と思ったものだ。
あの頃、彼を好きでいたこと。まだ幼かったわたしの瞳も、節穴などではなかったわけだ。
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