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幻想小説 幻視世界の天使たち 第3話

ユースフ・アリシェロフ教授は中央アジアに位置するウリグシク共和国の国立ウリグシク大学に研究室をもつ歴史学者である。もうすぐ四十歳になる。彼の専門は世界史に於ける征服と征服の過程での戦いの歴史だ。
その中でも、ユースフが数年に亘って研究しているのは絶対的に有利な戦力、戦略を持った軍が、弱小でこれと言った強みのない、勝ち目のない軍に敗退してしまったケースだ。有史以来の戦争の歴史の中では、士気の上がらない大軍が、智将に率いられた少数の精鋭部隊の戦術に翻弄され敗退した例はある。ギリシャ・ローマ時代のハンニバルやシーザーによる戦いなどがその例だ。
ところが、そのように勝因、敗因がわかり易いものばかりでなく、圧倒的な力を持った軍隊がはるかに弱小の相手に突如敗退を喫してしまうことがある。その典型が十三世紀アジア大陸を中心に一大帝国を築いたモンゴル帝国軍の二度の日本への侵攻で起こっている。実際はモンゴル帝国軍とその属国となった朝鮮半島の高麗の合同軍による攻撃なのだが、二度とも日本に上陸を行った後に、モンゴル帝国軍は何らかの理由で撤退を余儀なくされた。ユースフはその原因を荒天などの通常の自然現象のみで説明するのは無理なことで、何らかの特別な要因があったと考え、それを研究対象の一つにしている。
その日、ユースフが大学での歴史学の講義を終え、研究棟と呼ばれる各学部の研究室が窮屈な状態で入っている建物の研究室に戻ると、秘書のローラが「お客様がいらっしゃっています。待たせて欲しいとのことでしたので、お通ししました。イギリスの方のようです。正直言いまして言葉が少し聞き取れなかったものですから」
背広をきちんと着込んだ長身の男が研究室の古びた応接セットの椅子に少し窮屈そうに座っていた。研究室への突如の来訪者は英国人でジョン・ボイドと名乗った。彼の頭髪と同様、栗色をした髭を顏全体に生やしていて、年齢は良く分からなかったが、およそ自分と同じ位だろうとユースフは思った。ボイドは英国アクセントの強い英語で話したが、ユースフも二十年ほど前に英国の機関で研究に従事していたことがあり、むしろ懐かしく聴きとることが出来た。
「このように不意に訪問したことをどうぞお許しください。私はイギリスで歴史を研究しているものです。専門は中世ヨーロッパの魔術の研究です。そして」
ボイドはそこで一瞬間をあけた。
「そして、オンラインゲームの魔境伝説の運営を行っている者です」
ボイドは伏し目がちであった顔を上げて、ユースフの反応を見るように言った。
「ほう」ユースフは一瞬戸惑った表情となったが直ぐに冷静な顔に戻って言った。
「それではボイドさん、あなたは私がファルコンであることを知っているのですね」
魔境伝説はコンピュータから与えられた難問を幅広い知識と推理力で解いて、成績を競うオンラインのコンピュータゲームだ。不定期にチャンピオンシップが開催されており、そのチャンピオンとなった者は次の大会での問題作りの企画を託される。ファルコンことユースフは一年ほど前にこのゲームのチャンピオンになった。
ゲームはすべてオンラインで行われ、参加者やゲームの関係者がリアルライフで顔を合わせることはないはずだ。ユースフはとまどった。そして彼らが座っている応接セットから十メートルほど離れ、パーティションで囲まれたデスクでタイプを打っている秘書のローラの方をちらっと見た。ファルコンという名前を聞かれたのではないかと考えたが、彼女の頭が何事もないように動いているのがパーティション越しに見えただけであった。
「そうです。あなたのコードネームはファルコンでしたね。こんな個人情報をしゃべってしまい申し訳ないですな。私はアルバトロスですが、こちらではコードネームは使わないようにしましょう」
ユースフはボイドの口から、魔境伝説の初代チャンピオンで強権的な管理者としても知られるその名前を聞いて、この男が嘘を言ってはいないと思った。
「そうですね。コードネームは使わないようにしましょう。ボイドさん、それで御用件は一体何なのでしょうか」
ボイドは顔を少し引き締めて言った。
「あなたに特別に解いて頂きたい問題をお持ちしました」
「問題?」
「十三世紀、モンゴル帝国軍の日本侵攻での撤退の謎を解いて欲しいのです。この歴史上の事件のことはご存じですね」
「ああ、それはユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国が敗退した事例ですからね。実際は高麗の海軍を使って二度に亘って日本に攻め入ったのですが結果的に何らかの理由で敗走したのです。モンゴル帝国の戦史は私の研究テーマの一つでもあります」

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