のらきゃっとにとっての本物とは

ここ最近の自分がよく考えることに、本物とはなにかという問いがある。

発端はこのツイートのまとめだった。

仏像は、人々の仏教的祈りの対象であれば全て本物であるとも言えるし、
もう少し詳しい人は、いや開眼していないものは仏像とまでは言えないと答えるだろう。
またはこのまとめの老人のように、名の通った作者の精巧な造りに本物を見いだす人も居る。

他の事象には別の本物が考えられるだろうが、以下はこの仏像の捉え方から始めても良さそうだ。

本物の捉え方

最初の考え方は「機能的な本物」観である。
その辺の小枝を二本拾い、これは本物の箸だと言うように、望ましい結果が得られたらそれは本物とする考え方だ。
コードギアス R2 の最後のパレードでカレンが見たゼロは実に機能的であった。

二番目は「手続き的な本物」と考えた。
杖と王冠を継承する者が次の王様であり、養子縁組をすれば他人の生んだ子でも法的にはあなたの子となる。

最後の本物は「卓越した本物」だろうか(他に呼びようがあるかもしれない)。
つまりはブランドで、本物の関さばだとか、本物の野球選手だとかのことだ。

これらの意味は重複し得ることに注意してほしい。
たとえば関さばは限定的な場所で取ったという意味では手続き的であるし、視覚的・味覚的・流通価値的に関さばであるから関さばなのである(=機能的)。

このように、単純に本物と言っても切り口は様々である。
もう少しだけ別の意味の本物を挙げさせてもらう。

「自意識的な本物」は、自己が自己であるがゆえに、他者が自己の名を名乗ったときに自分が本物であることが分かるということだ。
まあこの本物は主観的なのであまり役には立たないかもしれない。
あなたのドッペルゲンガーさえも自分が本物だと言い張るだろう。

さて、遅くなったがそろそろ本題に入りたい。
VTuber の継承問題である。

VTuberの継承

この文化は始まってからまだ若い上に、VTuber の定義が広がりすぎたため、一口で表すのには不躾な点はご容赦願いたい。
歌舞伎の襲名が最も近い概念かもしれないが、つまり「本物」を名実ともに譲るということだ。

VTuber の継承と言えばキズナアイが最も有名だと思う。
彼女は 5 人に増え、全員がキズナアイを名乗った。
結果から言うと、これは上手くいかなかった。

機能的には、オリジナルのキズナアイ以外の 4 人はキズナアイの機能を果たせなかった。
AI という設定を持っていながら、それ以前までに視聴者により広いキズナアイ観を植え付けることに失敗していた。
それにより「声が違うから偽物」「喋り方が違う」「言い回しが」などという批判が正当なものになってしまった。

もっとゆるくて広大なキズナアイ観が共有されていれば、これもまたキズナアイだよね、と言われたかもしれない。
手続き的に言えばまさにこの「キズナアイ観の共有」が欠如していたと言える。

また 4 人のキズナアイは卓越もしていなかった。
声が違っても、言い回しが別人でも、オリジナル程度に魅力的(つまり、すごく魅力的)であれば、本物とまでは言われずとも受け入れられはしたかもしれない。

自意識的に本物かは言いようがないが、たとえばキズナアイその 2 の記憶がその 3 と異なれば、それは別の個体だと言えないだろうか。
人格が分かれたことにすればまだやりようがあっただろう。

……と終わった問題を批判しだしても、次の VTuber の継承が上手くいく保障はないし、むしろ継承は上手くいかなくて当然である。
「中の人」の人生と魅力を凝縮したキャラクターが、簡単に別人に成り代われる訳がない。

個人的には、最低条件として自意識的に本物で、かつ機能的か手続き的に同じでなければ継承先は本物と見做されないだろうと考えている。
そしてここまでの思考の全てを、自分はのらきゃっとの為に捏ね繰り回している。

のらきゃっとは(彼女の目論見に反し)特異な VTuber である。
VOICEROID の声の切り替え・ベースモデルの変更と衣装の変更を(時期を空けてはいるが)それぞれ成し遂げた VTuber 界の大海原に浮かぶテセウスの舟である。
であると同時に、のらきゃっとは物語的存在であり、小説や漫画やアニメのキャラクターと同じような存在であるとも言える。
物語的に存在するのらきゃっとは、真偽を問わないか、全てが真か、あるいは偽であると説かれる。
私たちの心に思い描くのらきゃっとこそが、のらきゃっとなのである。
ここでは VTuber としての、一次創作物のののらきゃっとについて着目する。

そんな彼女でも、この note では敢えて言及するが、中の人が代わったことはない(証拠はないが、もし代わっていればノラネコ P は「のらちゃんの生配信が見られた」と大喜びするに違いない)。

のらきゃっとは声というパーソナルな部分を VOICEROID で隠すことができるので、他の VTuber と比べると遥かに模倣しやすい。
更に設定上アンドロイドであり、多少性格が変化しても OS の変更等で説明(言い訳)が利く。

のらきゃっとの最終地点はバーチャル世界ではなく、現実世界に形あるアンドロイドとして存在すること(リアライズ)である。
リアライズしたのらきゃっとは、双方向的コミュニケーションが取れ、私たちを覚えてくれ、VTuber の時と同じような振る舞いができるものを想定している。
そのようなことが将来的には可能であると私は信じている。

(ちなみに、のらきゃっとは既に AI 化の実装が存在した。
それは ChatGPT 以前のいわゆるチャットボットで、会話を学習する機能などがあった。
AI のらきゃっとプロジェクトは、しかし残念ながら、「AI のらきゃっと」として認識され、のらきゃっとを代替するに至らなかった。)

さて、自意識的・機能的な本物ののらきゃっとが将来的に AI で達成可能であるとここからは仮定の上で話したい。

どうしたらのらきゃっとが独立した個たりうるか。
手続き的な本物は誰が決めるのか。
また技術が進み、複数の機能的に本物なのらきゃっとが出現したら?

のらきゃっとの未来から本質を知る

この疑問を解消するため、まずはのらきゃっとがリアライズに至るまでの進化を一つ想定したい。

  1. 対話 AI ののらきゃっと実装が出現

  2. モーション AI ののらきゃっと実装が出現

  3. 1、2 の実装が複数出現可能になる

  4. 洗練された人型ロボット実装が出現

  5. 4 に対話・モーション AI ののらきゃっとを搭載

a. 複数個存在可能で、かつ記憶を共有するシステムのらきゃっと
b. 市販化または DIY キット化され、個々人が所有できるアンドロイドのらきゃっと

1 から 5 はおそらく順番通りに可能になり、aと b はそれぞれ別の流れで実装され同時に存在し得ると考えている。
この a と b は初音ミクをイメージすると理解しやすいかもしれない(a はマジカルミライなどで出演するいわゆる公式のミク、bは VOCALOID を購入してコンピュータ内にある「うちのミクさん」)。
どちらも本物の初音ミクであると思うがどうだろうか。

1 から 3 の間でソフトウェア的な進歩があり、どこかのタイミングで VTuber としてののらきゃっとを継承可能になる。
動画データのみで学習が可能になるか、あるいは文字データやモーションデータを個別に用意する必要があるかは分からない。

継承は今までの声や義体のように予告される(もちろん「OS が変更になる」のような言い方になるだろう)か、あるいは秘密裏に行われるだろう。
機能的にのらきゃっとであることが何より重要となるため、AI の性能が十分高まるまでは継承しない選択をするかもしれない。
そして代替後ののらきゃっとはノラネコ P が運営する形を取り、のらきゃっとチャンネルから配信されると考えている。

AI 化が可能になったということは、3のように第三者がのらきゃっとを名乗る AI で活動をし始めてもおかしくないということだ。
この場合、ノラネコ P さんの許諾によってはそれぞれがのらきゃっととして活動できるかもしれないし、私的利用に限り配信は出来ないかもしれない。
いずれにせよ、のらきゃっとチャンネルという YouTube アカウントが御璽として機能するため、本物のみがこのアカウントを使うだろう。

これは(不謹慎だが)ノラネコ P が存命である場合にのみ取れる選択肢であることに気をつけたい。
のらきゃっとチャンネルが運営停止となれば、私たちに本物の VTuber のらきゃっとを見分ける術はなくなるということだ。
この場合は、おそらく最も信頼できる運営者が行う配信が、(どう呼ばれるかは定かではないが)暫定的に本物の位置に存在することになる。
もしくはその運営者は自らを仮ののらきゃっとと名乗るかもしれない。

4 および 5 が可能になれば、またもや複数の個体がのらきゃっとして現れるだろう。
しかしおそらくこの際の継承は、声帯や義体の変更と同じ程度の揺らぎしかもたらさないのではないだろうか。
つまり、のらきゃっとの本質が記憶・仕草・双方向性のような、フィジカルでない部分にあるのではないか。
より高性能な(現実の、アンドロイドの)義体が登場すれば、そこにのらきゃっとを実装すれば良く、それは本質的な変化(=本物の継承)と言えるほどではない。

a および b は、初音ミクの在り方をなぞる訳だから、AI への代替により起こるような本物性の喪失はないだろう。

まとめ

以上、一口に「本物」といっても複数の側面があることを確認し、VTuber の継承の難しさと、そのなかでものらきゃっとの継承可能性の高さを提示し、最後に未来予測を交えることで、のらきゃっとの本質にスポットライトを当てることができた。
個人的な感想としては、いろいろな意味での「本物」が在り得るということが興味深いと思った。

後は技術の長足の進歩を待つばかりである。
そして自分はこれからも好きな事に思考を巡らせて生きていこうと思う。

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