橋本治に暴かれた「心の死角」は宝物

世界で一番すきな橋本治が死んじゃった

それは2019年1月29日のことで
今日はもう6月3日

3月7日に発売された文芸誌は4つ全部買った
そこから色んな雑誌の
[追悼・橋本治]って文章をたぶん全部読んだと思う

ユリイカの[橋本治]追悼号
すごく楽しみにしていたけど
私が一番すきな『初夏の色』(新潮社、2013年)が
著作の一覧から抜けていて、すごく悲しかった

読んだ追悼文のなかで
『初夏の色』にふれていたのは
栗原裕一郎が
[文藝別冊・追悼総特集 橋本治]に書いた

"橋本治の後半の小説について
  ー「わからない人々」や
            「わからない時代」を描く"

くらいだった

この文章を読んで刺激をうけた
私も私の追悼文を書かなくちゃいけないと思った

誰も『初夏の色』について書かないなら
私が書けばいい

私の失敗した卒論のテーマは
「村上春樹と橋本治の《わからない》」だった

村上春樹も橋本治も【「わからない」の作家】
卒論には失敗したけど、今でもそう確信している

村上春樹の主人公は
口癖のように「わからない」と言う
でも橋本治の小説を前にすると、全然かすむ

ある時そう感じて、
私は彼らの「わからない」を数えた

たとえば村上春樹の
「象の消滅」と
「かえるくん、東京を救う」という短編

一夜にして動物園から象が消える話と
さえないオジサンが「かえるくん」と一緒に
巨大みみずと戦って大地震から東京を救う話

それぞれ「わからない」が9個と11個

村上春樹の短編のなかでも
「奇譚度」高めの物語を
ふたつ合わせて、「わからない」は20個

でも、橋本治の短編集『初夏の色』に入っている
「海と陸」っていう短編には
「わからない」が41個でてくる

「海と陸」のストーリーは、とても地味だ
高校卒業後に地元の駅で
偶然再会する男女が海に出かけて、
かつて同級生だった女の子が
東北へ震災ボランティアに行った話を
男の子が延々と聞かされる

そんな話に「わからない」が41個でてくる

村上春樹の短編集
『カンガルー日和』でも数えてみると
まるまる一冊で「わからない」43.5個だった

村上春樹も
橋本治も
【「わからない」の作家】だけど

橋本治は
短編「海と陸」ひとつだけで
「わからない」41個

どう考えても
橋本治の「わからない」の多さは異常

といった具合に
村上春樹と橋本治の
《わからない》を数えてびっくりして

ただ、それだけでは卒論にはならなかった

ここから先にあげるのは
卒論のためにつくっていた
引用ノートの一部です

とにかく私は卒論の準備をしていて
橋本治の「わからない」を調べていくうちに
小説を書こうと思ってしまった

橋本治のインタビューを読んで
私みたいに小説を書きたくなる人が増えるといい

私の追悼は
引用をごろり、ごろりと転がすこと

橋本治が「わからない」について語っている
インタビューを3つ
栗原裕一郎、高橋源一郎、内田樹の順に
最後まで
注釈・解釈なしで、
ごろり、ごろり、ごろり

以下、
改行と一行あけの責任は
すべて引用者の私が持ちます

———————————————————————
「村上春樹と橋本治の《わからない》」卒論ノート

橋本治の「わからない」インタビューその1


  ユリイカの「橋本治」特集号
 (聞き手:栗原裕一郎)

栗原
「普通わからないものは
 わからないまま放置しますよね。

 橋本さんの場合は
 わからない人にも
 視点が移動して
 内面描写が始まってしまう」

橋本
「だってわかる人の内面描写をしても
 しょうがないじゃん」

栗原
「内面描写をできない人が
『わからない人』なんじゃないですか?」

橋本
「わからない人だから
 何だろうと考えるんですよ。

 わかっている人とは
 付き合えばいいじゃん(笑)。」

(略)

栗原
「わからない人と
  うまく付き合うことと、
  小説でわからない人を
  内面描写してしまうことは
  違うように思えるんですが、
  なぜそういうことが
  できてしまうんだろうと
  不思議なんですよね」

橋本
「それを言われると
 私はひっくり返ってしまうんですね。

 高橋源一郎さんと
 短編小説について対談したときにも
(『TALK 橋本治対談集』
  武田ランダムハウスジャパン)、
 内田さんと対談したときにも
(『橋本治と内田樹』筑摩書房)、
 それ逆ですよと言われて、
 『ええっ!? 違うの!?』って
 初めて気づいて。

 そう言われると、
 じゃあ俺って
 なにやってるんだろうと
 わけがわからなくなるんですよ。

 自分のやることを
 否定されてもしょうがないから
 知らないよとなるんだけど」

栗原
「いや、否定しているんじゃなくて。

 最初に言った演繹的な内面描写って、
 橋本さんの作品で
 初めて見たような気がするわけです」

橋本
「演繹的描写だと言われれば
 演繹的な描写
 なのかもしれないと思うけれど、
 本当にいわゆる演繹的描写に
 合致しているかどうかは
 わからないです。

 私が何を分析しないかと言えば、
 自分のあり方だけは分析しないですもん。

 自分に関する疑いがないんですよ、ほんとに。

 こんなに確固としている人は
 いないと思います」

栗原
「自分に不思議がないから
 他人にも不思議がない?」

橋本
「自分に不思議がないから
 他人が不思議なんです」

栗原
「自分を基準にするしかない以上、
 自分はこうだからあいつもこうだろう
 という類推の仕方に
 どうしてもなりますよね?」

橋本
「でも成長する段階で
 自分とは違う他人の考え方を
 吸収していくから、
 そういうかたちで
 他人の内面を自分のものにしていく
 ということはあると思いますけどね。

 『わからない他人をわかる』というのは
 それしかないですよ?」
   

橋本治の「わからない」インタビューその2

『TALK 橋本治対談集』
高橋源一郎との対談
  
高橋
「さっきの話に戻るんですけど、
 『桃尻娘』で書いてたようなものから、
  人生を描く方向へシフトしたのは、
  橋本さんにとって
  自然なことだったんですか。」

橋本
「『窯変源氏物語』のあと、
  現代人も書かなきゃと単純に思ったんです。

  昭和が終わって、
  みんな寂しくなっているじゃないですか。

  小説は、登場人物が動かないと
  どうにもならないんだけれど、
  その登場人物が、
  ドラマを演じられるような能力を
  持ってないという状況があった。

  だから、
  登場人物のための
  ワークショップをやろうと思ったの。

  一人ずつ、この人はこういう人で、
  この人がもうちょっとどうにかなったら
  ドラマやれるかもしれませんね、
  というつもりで始めたんです。」

高橋
「あらゆるタイプの人が出てきますよね。
  僕が教えている大学のゼミで
 『蝶のゆくえ』を読ませたんです。

  日頃本を読まないから、
  かえってよく理解してくれる。

  それで女の子は
 『どうして女のことが
  こんなにわかるのか理解できない』と言う。

  男の子はみんな『すごい』。

  ただ『何かわからないけどすごいです』。

  でも全員
 『こんな小説読んだことないんです』
  って言うんですね。」

橋本
「自分では特別なことを
 やっているつもりは全然なくて、
 小説ってこういうものだったんじゃないの
 と思ってるだけなんです。」

    (略)

高橋
「僕の想像なんですけど、
 橋本さんは小説書くときに
 リサーチしてないでしょう。」

橋本
「してない。」

高橋
「でしょう。

 このシリーズはすべて、
 基本的に内面の吐露だから、
 『……というふうには思わなかった』とか
 『思えなかった』とか
 『この程度しか思えなかった』という記述が、
 すごくたくさん出てくる。

 登場人物は五、六歳の子どもから
 おばあさん、おじいさん、
 男、女、
 疲れたサラリーマンまで、
 あらゆるタイプの人間なのに、
 読んでいると本当に、
 そうでしかあり得ないような
 気がしてくるんだよね。

 これがなぜかと考えると、
 ひとつは
 『完璧にリサーチしているから
 説得力がある』。

 もうひとつは『当人に憑依できる』。
 
 どっちかですよね。」

橋本
「憑依というのはあると思います。

 でもそれは
 シャーマニックなものではなくて、
 演劇的なもの。

 もともと演劇が好きで、
 それも昔の演劇だから、
 舞台の上に人間が出てきたら、
 それがどういう人かは
 全部決まってなきゃいけないと
 思ってるんです。

 まず舞台になにか情景があって、
 そこに人物が出てきて、
 出てきた人物が何か語り始めた瞬間、
 もうその人は『その人』なわけですよ。

 小説もそういうふうに書くものだと
 思っていたから、
 登場人物がどういう人間なのか
 わからない限り始まらない。

 出てきてしゃべっているうちに、
 どんどんその人は本当になっていく。

 そうしたらここでひとつ芝居をさせなきゃ、
 そういう考え方をするんです。」

    (略)

高橋
「これもどこかで
 橋本さんが書かれてたと思うんですけど、
 女の子の話を書くのは
 なかなか難しいかもしれない、
 それはつまり
 現代の女の子の幸せがわからないからって。

 その点は、いまはどうなんですか」

橋本
「いまもそうですよ。

 小説を書くってことは、
 そのひとにとっての幸せって
 何だろうということを
 いちおう頭においてからじゃないと
 始まらないと思ってるから、
 若い人のことは書かないよね」

高橋
「そう? 書いてない? 書いてますよ。

 僕が『蝶のゆくえ』を
 読ませた女の子たちが、
 つまり当人が
『何でこの人は
 わたしたちのことが
 こんなにわかるんですか』
 って言ってるんですから」

橋本
「というか、
 そんなに自分のことが
 わかられないと思っているの?
 って逆に言いたいぐらいで」

高橋
「びっくりする方がおかしいと」

橋本
「うん。

 だって人はだいたいばれてるものじゃない。
 
 そのばれてることを小出しにしながら
 つきあいを成り立たせているわけだから、
 自分が人にわかられるはずがない
 という前提で人とつきあうのは
 おかしいじゃない」

高橋
「それですね、きっと。

 橋本さんが文壇から遠ざけられてる理由は。

 普通の小説は
 秘密があるという前提で書かれているから、
 わかるのが当たり前ってことになると、
 文壇の小説は根底が崩壊する(笑)」

橋本治の「わからない」インタビューその3

『橋本治と内田樹』筑摩書房 

橋本
「あと、
 自分と違う人のほうが
 わかりやすいんですよね。

 『桃尻娘』を書くときに、
 こっちが二十七、八じゃないですか。

 主人公は十五だったでしょう。

 何が違うかというと、
 男と女が違うと考える前に、
 彼女は俺より十二若いんだ。
  
 とすると、俺が知っている十二年分、
 彼女が知らないんだな。
 そういう引き算をしちゃったんです。」

内田
「それはすごいな! 情報を抜いたんですか。」

橋本
「うん。」

内田
「それは先生! 天才ですよ! すごいです。
 
 自分が知っていることを抜いて、
 『知っていることを知らないふり』して
 ものを考えるのって、
 めちゃくちゃ難しいんですから。」

橋本
「うん。
 でも、ほら、たとえば、
 自分が高校生だったときに好きだった歌を
 彼女は知らないはずだというふうにすると、
 じゃ代わりに彼女が好きなのはなんだろうと。

 そういうふうに抜いて代入していくと、
 パーソナリティーが出来てくるんです。」

内田
「軽々とおっしゃいますけどね、
 それはほとんど不可能なことなんですよ。」

橋本
「そうなんですか?」

内田
「そうなんです。

 知っていることを知らないふりをする。

 知っている情報を抜くというのは、
 知的操作の中でも
 いちばん難しいことですよ。」

橋本
「でも他人になるって
 そういうことじゃないですか?」

———————————————————————
橋本治は完全にわかっていた
「私たちが
 自分のことを〈わかってない〉こと」を

そして
現代の女の子であるところの私は
橋本治のインタビューを読むまで
「自分の幸せがわかってないこと」を
わかってなかった

私たちはいつだって
相手のこと以上に、自分のことが「わからない」

このインタビューを読んで私は、
端的に橋本治が「怖い」と思った

思った次の瞬間、
「だめだくやしい。小説を書く」と思った

自分の幸せが
わかってなかったことを

橋本治の小説に
教えてもらっていたことに気がついて

感謝よりも先に
「怖い」と「恥ずかしい」が渦巻いて

耳に頭に
血が昇ったときのことを覚えている

なぜ橋本治を怖いと思ったのか

それは、
私たちが「思わなかったこと」まで
橋本治が書いているからだ

高橋源一郎が言うように
橋本治の小説には
『……というふうには思わなかった』
『思えなかった』
『この程度しか思えなかった』
という記述が、
すごくたくさん出てくる

主人公たちが思わなかったことを、
なぜ私たちに伝えるのだろう

ずっとそのことが不思議だった

今なら、わかる

橋本治は
私たちの「心の死角」を暴いていたのだ

「思わなかった」ということは
心の死角で「それを思っていた」のだろう

「海と陸」には、
こんな「思わなかった」シーンが出てくる

美保子の話を聞いて、
「それでお前は
 漁師になりたいのか?」
 と健太郎は思わずに、
「この女は東北まで
 ボランティアに行ったんだ」と思った。
美保子は、
「自分は
 言わなくてもいいことを
 言ったのかもしれない」とは思わない。

思っていても、思っていなくても、
物語の展開に大きく影響を
与えることのなさそうな、心の死角

登場人物が「思わなかったこと」は
私が心の死角で「思ったこと」
そして「思わなかったこと」なのではないか

どんどん心の死角が暴かれていって
橋本治の小説は怖いのだけど
たぶんまったく同じ理由で
読み終わると救われた気持ちになる

私がとりわけ『初夏の色』を大切に思うのは
「東日本大震災を
 どこかで経験してしまった日本人」を
橋本治が描いているからだ

つまり、それは私からすると
「東日本大震災を
 どこかで経験してしまった日本人」の
「心の死角」が描かれていることになる

健太郎の目の前にいる女は、
「なにも出来ない自分」
という正体にぶつかって行く女で、
彼女を拒絶できない健太郎の中にももちろん、
「なにも出来ない健太郎」がいた。
p172

2011年に高校2年生だった私も
東京で東日本大震災を経験して
「なにも出来ない」と思っていた

東北の地に
「行った」と「行ってない」の違いはあっても、
美保子と健太郎の間には根本的な違いがない。

二人とも、
「自分はなにかが出来る」と思っていて、
その実は
なにも出来ない無能さを抱えている人間なのだ。

「無能」とは、
「現在」以外の選択肢を
持たぬままにあることで、
能力の問題ではない。

若い二人は地続きの現実を歩いて、
その内に現実の途切れたところに行き当たった。

津波にさらわれて
行き止まりになった突堤に立って、
その先に広がる海を見つめるしかないように。

卒論なんかやめて
小説を書こうと思ったくせに
じつは卒論のために
橋本治の「わからない」の数を
調べ続けていた私は
この部分を読み返して
「だめだやめよう。やっぱ小説書く」と思った

「無能」とは、
「現在」以外の選択肢を
持たぬままにあることで、
能力の問題ではない。

私は自分のことがよくわかってなくて、
自分の幸せがなんなのかよくわかってなくて、
「現在」以外の選択肢を持っていない。

心の死角どころか
橋本治が暴き出した私の「無能」に争うには
小説を書くしかないと思った

いつまでたっても新人賞はとれないけど
私が小説を書くのは
「現在」以外の選択肢を持つためだ

勝手に自分でそう思ったところで
「現在」以外の選択肢を
持てているのかは、わからないし
いまだに私は自分のことがわからない

でも、小説を書くようになって
「自分の幸せ」については
「わかる」ようになってきた

「こういう状態が、しあわせ」
という感覚が自分のなかにあって
全然その状態じゃない人物を
小説に書こうと思っている

私も全然その状態じゃないし
ずいぶん長い間、まともな恋人もいないけど
おかげさまでそんなの別に大丈夫な感じがある

最後に、
小説以外の橋本治の言葉で
私の人生を支えてきた
パンチラインを紹介して終わる

名著『ぼくらのSEX』より引用する

あなたの心の死角も、
きっと暴かれているだろう

 人間のSEXの基本はオナニーで、
 オナニーの後には、みじめさがやってくる。

「自分というのは、
 時としてみじめで、それは、
 人間が自分の手で
 自分の人生を切り開いていくものである以上、
 しかたのないことなんだ」

 ということを認めなければならない。

(略)

「快感」というものを
 手に入れるのだったら、それと引き換えに、
 それに相当する「みじめさ」という代償を
 はらわなければいけない。

 それをしなければ、知らない間に、
 その「みじめさ」を
 他人に押しつけていることになる。

 それは、
 どうあっても
 知らなければいけない"事実"なんだ。

もう1つ。

 人間というものは、
 自分で自分を
 把握しなくちゃいけないものだけど、
 そんなにいつも"自分"というものを
 意識し続けていたら、疲れてしまう。

 意識し続けて
 疲れてしまった自分を休ませてくれるのが、
 他人とするSEXなんだね。

「あ、この人は自分を許してくれる」

「この人は、自分を受け入れてくれる」

「この人となら、
 "SEXをしたい"と思っても
 傷つけることにはならないんだ」

 と思えるような人とSEXをすれば、
 混乱していた頭なんかは静まっちゃう。

 そのために、SEXの快感はあるんだね。

心の死角を暴かれて、
私はずいぶんと強くなりました。

橋本治さん、長い間、どうもありがとう。

あなたに暴かれた心の死角は、私の宝物です。

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