見出し画像

Gabriel Du Buisson

一昨年、連続でコンサートをしたノンムジュレの作品群にまたまた追加する曲が出てきました。今まで気がつかなかったんですよね。
ちょっとそのことを書きます。

「モダンチェンバロ研究会」第一回目に向け、1889年周辺のチェンバロ音楽を調べていますが、その中の1曲にどうも資料のないものがありました。そして、ちょっと面白いことに気がつきました。
新年早々脱線しています。


ルイ14世の妻マントノン夫人(1635~1719)のことが気になりました。マントノン夫人に仕えた作曲家としてはルイ=ニコラ・クレランボー(1676~1749)がいます。

マントノン夫人は
1715年のルイ14世の死を前にして、サン=シールへ引退。そこで
マントノン夫人は、良家出身の財産のない子女のために聖ルイ王立学校を創設し、後に王は彼女の要請に応じて、サン=ドニ修道院の基金を用いてサン=シール(現在のイヴリーヌ県サン=シール=レコール)を彼女に与えた。と書かれています。(wiki)


一方、クレランボーは
ルイ14世が崩御後、サン=シールの王室において、貧しい貴族の女子教育のために教師を務め、音楽とオルガンを教えたり、合唱と聖歌の指揮を執ったりした。マントノン夫人の没後もこの職務を続け、任期中に「フランス語カンタータ」というジャンルを発案し、この分野で並び立つ者のない巨匠となった。1719年より恩師アンドレ・レゾンの後任オルガニストとしてグラン=ジャコバン教会に奉職。(wiki)

マントノン夫人とクレランボーはルイ14世の死後もサン=シールという重要な仕事でつながっていました。
クレランボーの影響はとても大きかったと思います。
(そして音楽に関してはただ今、まだ調査中です。少しお待ち下さい。)

クレランボーのことを調べていて、
Gabriel Du Buissonという作曲家を知りました。
彼は詳しい生年月日はわかりませんが、1690年頃生まれで活動期は1716年ミュンヘンのバイエルン宮廷で室内楽奏者として雇われた時から1732年頃にサンジェルマン・ロセロワでオルガニストの職に就き、おそらく1750年頃に亡くなるまでとされています。
作品は1組曲のみ残されているようです。

「Première suite de pièces de clavecin 」

1732年初出版
全9曲
献呈はLouis-Nicolas Clerambault

資料にはクレランボーに献呈とありますが、珍しく解説に「Mon cher amy」我が親愛なる友、とあります。
2人のどちらのプロフィールにも師弟関係のような記事はなさそうです。尊敬する友人であったということでしょうか?

この組曲の最初の曲がノンムジュレでした。

ノンムジュレとは17世紀の一時期フランスの作曲家の中で流行った作曲法で、チェンバロの作品の中では演奏法に大いに悩む作品です。

おととしコロナ禍、2022年にちょっと調べてみようと思って17世紀の作曲家10人の作品を数回に分けてコンサートにいたしました。
Gabriel Du Buissonを入れなくてはいけなかったですね。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?