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サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会とサン・ジェルマン・デ・プレ教会

パリにある2つの教会について。
パリ4区のサン・ジェルヴェ・サン・プロテとパリ6区のサン・ジェルマン・デ・プレ。

ルイ・クープランが就任し、甥のフランソワ・クープランがのちにオルガニストになった教会はサン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会です。


古い方はサン・ジェルマン・デ・プレ。
558年奉堂。

パリの古い地域で有名人の逸話が多く残っています。

有名なところでは

ドゥ・マゴ


サンジェルマン大通りとボナパルト通りのコーナーに19世紀末に開業した「Café Les Deux Magots(カフェ・レ・ドゥ・マゴ)」。

第二次世界大戦後、サン=ジェルマン=デ=プレ地区はパリの知的・文化活動の一大中心地となり、多くの哲学者、著述家、俳優、映画監督、音楽家などの文化人やボヘミアンが連日ナイトクラブやブラッスリーに集った。その中には、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(両名とも哲学者)、ジュリエット・グレコ(俳優、歌手)、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー(両名とも映画監督)、ジャック・プレヴェール(詩人)といった人々がいた。

カフェ・ドゥ・フロール


公式ウェブサイトには、「おそらく1887年に」創設されたと記されている。

現在はかつてほどの名声はないが、芸術家たちは好んでこの地区を訪れ、最盛期の雰囲気を今に伝える「ドゥ・マゴ」や「カフェ・ド・フロール」といったカフェで時を過ごす。ブラッスリー「リップ」は、ジャーナリストや著名な俳優達の溜り場となっている。
地区内の建物は17世紀当時の面影を今に残すものの、カフェからレストラン、アートギャラリー等があり、当時の小売店や書店・出版社は姿をひそめ、現在は主にファッションの高級ブティック等となっている。 1961年、シンガーソングライターのギィ・ベアール(fr:Guy Béart)が『それっきりもう何もない』(Il n'y a plus d'après)を作り、サン=ジェルマン=デ=プレを歌った。この歌は既述のジュリエット・グレコによってカバーされた。同じくシンガーソングライターのアラン・スション(fr:Alain Souchon)は、ベアールの歌に描かれた地区の雰囲気は現在なくなってしまったと、自ら作ったシャンソン・『パリ左岸』(Rive gauche à Paris)に自らのノスタルジーを歌った。
1967年にも、シンガーソングライターのレオ・フェレ(fr:Léo Ferré)が『カルチエ・ラタン』(Quartier Latin)の中で、サン=ジェルマン=デ=プレの変わりように対しての失望と無念さを吐露している。
サン=ジェルマン=デ=プレ地区はパリのシンボルの一つであり、多くの映画やテレビドラマの舞台として描かれている(アメリカのテレビドラマ『ゴシップガール』では、高級ホテルの一つである「l'hôtel Bel Ami」で起こるシーンが描かれている)。(wiki)










サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会
パリ4区

6世紀のバシリカの跡地に1494年に建設が開始され、完成したのは1657年のことで、建築家や時代も様々である。建物内部では、聖歌隊の丸天井は華やかなゴシック様式、16世紀の身廊はゴシック様式、窓やステンドグラスはルネサンスの影響を受けている。
パリ最古とも言われるサン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会です。

ルイとフランソワ・クープランが使用したオルガンは、現在も教会内に残っており、当時最も有名なオルガン製作者であるフランソワ=アンリ・クリコ、ルイ=アレクサンドル・クリコ、ロベール・クリコによって製作されました。



ルイ・クープランが1653年4月9日にパリのサン・ジェルヴェ教会のオルガニストに就任した。以後この地位はクープラン一族によって占められることになる。ルイ・クープランは宮廷楽団でドゥシュ・ド・ヴィオール奏者の役職にあったがこれは彼がシャンボニエールの占めていた宮廷クラヴサン奏者の地位を提供されたものの、恩師への忠義からそれを辞退したため、代わりに彼のために特別に設えられた役職であったと言われている。1661年8月29日、35歳でパリにて死去。

短いその生涯のほとんどが不明であるが、「おそらく1650年ないし51年の聖ヤコブの祝日に、ルイ・クープランは弟のフランソワとシャルル、そして何人かの友人達を伴って、ジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエールがショームから15kmほど離れた彼の館にて祝宴を催しているところに訪れ、音楽の演奏を披露した。シャンボニエールはルイ・クープランの才能を認め、パリに来ることを勧めた。手稿譜に記された日付から1651年8月12日にはルイ・クープランはパリにいたことが分かっている。」という話は有名でその縁で宮廷のヴィオール奏者にもなり、また、ブランクロシェのトンボーの作曲経緯でも有名です。
1652年にはヨハン・ヤーコプ・フローベルガーがパリを訪れており、ルイ・クープランは彼の影響を受けたと考えられる。ルイ・クープランのプレリュードの一つには「フローベルガー氏を模して à l'imitation de Mr. Froberger」という題名が付けられている。またフローベルガーのパリ滞在時に事故死した、リュート奏者のブランロシェ (en:Charles Fleury) を追悼して、フローベルガーとルイ・クープランは両者ともトンボーを作曲している。

ついでフランソワ・クープランはルイ・クープランの甥で、ルイ・クープランの後任として1661年からサン・ジェルヴェ・デ・プロテ教会のオルガニストをしていた父シャルル・クープラン (1638-1679) の後任として1685年にオルガニストに就任している。父親が亡くなった時にはまだ10歳だったため、ミッシェル=リシャール・ドラランドが代理を1685年まで務めた。





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