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レオ・シロタ 戦時中の在日外国人


大堀聰氏著  「心の糧」(戦時下の軽井沢)は
「(戦時中の)軽井沢には食料がなくても自由主義の作家や政治家、中立国の外交官がいて、心の糧があった。」文化学院創立者 西村伊作の六女西村クワが、戦後だいぶ経って語った言葉である。
という文章から始まります。

1946年。

ショパンの全作品を放送音源に遺した。

1950年


1963年


軽井沢は1888年に在日英国公使館公式司祭であったアレキサンダー・クロフト・ショーによって建てられた別荘を第一号として、以降外国人の避暑地として名声を確立する。
終戦の年には、外国人は開戦と共に敵国人は抑留されたが、同盟国人、中立国人は軽井沢がその居住地の一つに指定され、横浜などから立ち退きを迫られると、軽井沢に外国人居留者が増える。

外国人の戦時下の音楽活動の記載はレオ・シロタ氏が筆頭で始まります。

レオ・シロタ(Leo Sirota, 1885年5月4日 - 1965年2月25日[1])は、ウクライナ出身のユダヤ系ピアニスト。本名はレイブ・グリゴローヴィ・シロタ(Leib Grigorovich Sirota, Лео Григорьевич Сирота)。娘は舞台芸術ディレクターで元GHQ民政局局員のベアテ・シロタ・ゴードン。

5歳でピアノを始め、9歳までに演奏活動を行って彼はキエフ音楽院に、その後はペテルブルク音楽院に学ぶ。
1904年になるとウィーンに留学してフェルッチョ・ブゾーニに師事。
1923年10月25日、ウィーンで、娘のベアテ(結婚-ベアテ・ゴードン)が生まれる。
1928年に、作曲家の山田耕作から日本に招聘され、最初に来日した。そして翌年1929年、彼は日本をツアーだけでなく、帝国アカデミーで6か月間教えるように要請されました。
1929年、シロタとその家族は日本に定住した。赤坂乃木神社近くの西洋風の大きな邸宅に住み、夏になると一家で軽井沢に避暑に向かった。
1929年に来日してから15年間日本で演奏家ならびに教育者として活動を続けた。
1931年から1944年までは東京音楽学校のピアノ部門を創設。シロタに直接学んだ弟子には松谷穣、長谷川米子(酒井優子)、永井進、豊増昇、蔭山英子、藤田晴子、田中園子、アナトリー・ヴェデルニコフ、園田清秀、園田高弘、尾高尚忠、金沢益孝、東貞一がいる。


ベヒシュタインやスタインウェイのピアノの流行に対して、ヤマハのピアノを好んだ。(wiki)

前述の著書では東京から運んだ二台のグランドピアノ(ドイツ製ベヒシュタイン)でピアノのレッスンを続けていて、その証言が綴られています。

レオ・シロタ氏については今後も度々登場します。

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