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ウィーン万博と薩摩焼

川上音二郎、貞奴一座がどんな時代に世界を巡業していたのか、1900年にロイ・フラーの招きでパリ万博に参加した頃は日本はどのように認識されていたのか、とても気になっていまして、調べていますが、先ほど、また面白いことがわかりグググっ〜っとブレてます。

1853年にペリーが来航。鎖国終了に向かって行きます。それから14年後の1867年にはパリ万博に参加しています。

沈壽官薩摩焼が出品されたかは定かではありませんが、薩摩藩は白薩摩や薩摩錦手を出品しています。
1867年は日本が万国博覧会に初参加した年です。政府としての正式参加は1873年のウィーン万博からです。
1900年のパリ万博にはロイ・フラーの招聘により川上音二郎、川上貞奴一座が参加して成功を収めていますが、すでにその33年も前に一体どのような日本が紹介されていたのか?

1867年については
日本からは江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩から出品、江戸・浅草の商人が数寄屋造りの茶屋をしつらえ、3人の柳橋芸者(おすみ、おかね、おさと)が独楽を回して遊んだり、煙管をふかしたりするだけの仕草が、物珍しさから、上記の幕府や西南雄藩による公式展示以上の人気になったという。開成所の高橋由一・宮本三平らの油彩、北斎・国貞・芳幾・芳年らの浮世絵、銀象牙細工の小道具、青銅器・磁器、水晶細工などが出品された。また、薩摩藩からは、コンプラ瓶に詰めた状態で日本から運ばれた焼酎なども出品されている。(wiki)

おすみさん


その6年後の1873年のウィーン万博は初めての政府公式参加した万博で、沈壽官薩摩焼も出品しています。その後、薩摩焼は世界の万博に出品されるようになる。沈壽官とは薩摩焼の名跡。

1873年のウィーン万博について
、、、、、万博会場では、約1,300坪の敷地に神社と日本庭園を造り、白木の鳥居、神社、神楽堂、反り橋を配置したほか、産業館にも浮世絵や工芸品を展示した。日本的で精巧な美術工芸品を中心にしたほうがよいとし、日本全国の優れた工芸品を選んだ。神社と日本庭園は大いに評判となり、展示物も飛ぶように売れた。ウィーンでもジャポニスムが注目され、その後1890年代の分離派画家グスタフ・クリムトの日本文様を意識した絵画などに受け継がれていった。この万博では越前和紙の製品が「進歩賞牌」を獲得しており、2017年2月に越前市内の蔵でその賞状とメダルが発見された。(wiki)


この映画はぜひ観たいと思っています。



川上音二郎、貞奴の一座が参加した1900年のパリではすでに日本に関して多くの情報が認知されていたと思われます。

1850年頃から1900年頃のパリの情報をひろっています。


万国博覧会
1851年 ロンドン
1853年 ニューヨーク
1855年 パリ
1862年 ロンドン
1867年 パリ
1873年 ウィーン
1876年 フィラデルフィア
1878年 パリ
1880年 メルボルン
1888年 バルセロナ
1889年 パリ
1893年 シカゴ
1897年 ブリュッセル
1900年 パリ
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ちなみにチェンロの世界では1880年頃に偶然発見された楽器が修復され、1889年のパリ万博でLouis Diemerによって初めてお披露目されました。バロック再起、そして新たなチェンバロの作品も生まれ始めて行きます。

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