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映画の話 2


2013年のスタジオコンサートでプロジェクターを使って演奏しました。
Jean Absilの易しいピアノ曲集を順番も変えず、そのまま弾いてピッタリ終わる。
映像に合わせてみました。


A Tript the Moon
Le Voyage dans la Lune      1902


Jean Absil
Du rythme a l'expression   より

モダンチェンバロで音楽をつけてみました。
録画録音:2013年4月20日
神楽坂チェンバロスタジオ

監督:ジョルジュ・メリエス
制作:1902年
世界初のSF映画

今日はジョルジュ・メリエス

マジシャンであったメリエスはマジックとトリックを使ったイリュージョンマジックショーを完成させました。マジシャンとして経験からSF映画は納得です。

ジョルジュ・メリエス(1861年12月8日 - 1938年1月21日)は、フランスの映画監督、俳優、マジシャンである。映画の創成期において様々な技術を開発した人物であり、世界初の職業映画監督のひとりといわれている。

メリエスは1896年から1913年までに531作品の映画を撮影しており、作品の長さは1分程度から40分まで様々である。扱っている主題はメリエスが劇場で披露していたマジックショーに似ており、物が消えるとか大きさが変化するといった「トリック」や不思議な現象が含まれている。それら初期の特殊効果映画にはプロットと言えるものが基本的になかった。そういった特殊効果はプロットを強化するためというよりも、何が可能かを示すためだけに使われている。メリエスの初期の映画の多くは、単一のカメラによる合成で撮影されており、それだけで映画全編を構成している。例えば『一人オーケストラ』では多重露光を使い、メリエスが1人7役を演じ、同時に画面に映っている。後にバスター・キートンはこの技法をさらに洗練させ『キートンの即席百人芸(英語版)』(1921) で使った。
リュミエール兄弟は彼らの発明が科学や歴史の研究にとって重要だと考えており、世界中にカメラマンを派遣して民族学的なドキュメンタリー映画を撮らせた。一方メリエスのスター・フィルムはマジックやイリュージョンの延長線上にある娯楽的方向へ舵を切った。

1896年
ロベール=ウーダン劇場における婦人の雲隠れ


1900年
一人オーケストラ


晩年、仕事が上手くいかなくなりかなり困窮した頃、1920年代中ごろにはモンパルナス駅周辺で飴と玩具の売り子をし、他の映画製作者らが集めた基金による援助で食いつないでいた。1925年、長年の愛人だったジュアンヌ・ダルシーと結婚し、パリに住んだ。1920年代末ごろ、何人かのジャーナリストがメリエスと彼の業績を調べ始め、新たな関心が生まれた。映画界で再評価されるようになり、1929年12月にはサル・プレイエルで回顧展が開催された。それについてメリエスは回想録で「人生の最高の瞬間を経験した」と記している。チェンバロのプレイエル社が創設したホールです。
1931年、レジオンドヌール勲章を受章。プレゼンターはルイ・リュミエールが務めた。リュミエールはメリエスを「映画的スペクタクルの創造者」と評した。しかしどんなに賞賛を受けても、生活は楽にはならなかった。Eugène Lauste という映画製作者に宛てた手紙でメリエスは、「運よく、健康状態はよい。しかし毎日14時間休み無く、冬の寒さの中や夏の暑さの中で働き続けることは難しい」と記している。1932年、映画界はメリエスと孫娘マドレーヌと妻ジュアンヌ・ダルシーに La Maison du Retrait du Cinéma(映画業界人のための老人ホームとしてオルリーに建設)の部屋を提供した。メリエスはこれに感激し、あるジャーナリストに「これでパンと住処を心配しなくて済むのは、最高の満足だ」と手紙を書いた。オルリーでは若い映画監督と共同で脚本を書いたりしたが、どれも実際の作品にはならなかった。例えば、ハンス・リスターとミュンヒハウゼン男爵の新たな脚本を書き、アンリ・ラングロワ、ジョルジュ・フランジュ、マルセル・カルネ、ジャック・プレヴェールと共に Le Fantôme du métro と題した作品を構想した。晩年にはプレヴェールと共に広告の仕事を若干行っている。1935年、ラングロワとフランジュはルネ・クレールを伴ってメリエスと会い、翌年にはオルリーの老人ホーム内の使われていない建物を映画フィルムのコレクションの保管所として借りた。そして、その保管所の鍵をメリエスに預けており、メリエスは後にシネマテーク・フランセーズの一部となるコレクションの最初の管理人となった。結局1913年以降新たな映画は製作できなかったし、1923年以降は舞台に立つこともなかったが、亡くなるまで絵や脚本を書き続け、若い映画製作者らに助言し続けた。
1937年末に重い病気にかかり、ラングロワがパリのレオポルド・ヴェラン病院への入院を手配した。ラングロワが手厚く看護し、死の直前にはフランジュが見舞いに訪れた。彼らが病床を訪れると、メリエスは最後のシャンパンボトルのコルクがはじけて泡があふれている絵を見せた。そして「友よ笑え、私と笑ってくれ。私はあなた方の夢を見たのだから」と言った。1938年1月21日、癌により死去。


カメラを止めて被写体を入れ替えるというトリックを発見した。
1895年、トーマス・エジソンもこのトリックを使って映画を撮っている。 


メアリー女王の処刑


これらがパリの街で行われていた頃、まさにヒストリカルチェンバロの研究、バロック時代の作曲家の作品の研究、モダンチェンバロの発明・開発が同時に起こっていました。
エッフェル塔の完成、ムーラン・ルージュの開業。
文化的に芸術的に大成功を収めた万博でした。
それら全てが1889年のパリ万博に向けて花開いていきました。

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