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ファミコン革命前 昭和な学生時代その1

改めまして
「僕は、生まれも育ちも福岡県糟屋郡志免町です。立坑櫓を眺めながら、井戸水で育ち、姓はヨシズミ
名はミチトと申します。
人呼んで "多趣味なミチト" と発します。

不幸な親ガチャな縁持ちまして、幼い頃からコキ使われながら、粉骨砕身、売に励もうと思っております。 
西に行きましても東に行きましても、とかく土地のおアニィさん、おネェさんにごやっかいかけがちなオッサンでございます。
以後、見苦しき面体、お見知りおかれまして恐惶万端引き立てて、よろしく、お願み申します。」

っと、前置きはこの程度にして、昭和→平成→令和と3つの時代を生き抜いておりますが、中学生までは昭和でした。

母方の妹夫婦と従姉妹
両親が営む雑貨屋の前にて

改めて、昭和時代のリアルな生活を振り返ると、
自宅のトイレは家の中にあったけど、両親のお店のトイレは外でした。
雨の時は傘をさして、トイレ行くのが面倒だったのを覚えています。
もちろん、ぼっとん便所です。
紙はトイレットペーパーではなく、ちり紙といって、硬い紙が一枚一枚重ねてありました。
今考えると、綺麗好きな性分なのに、硬い紙で血が出るまで拭いていたので、父親に似て、若い頃は痔持ちの様だと悩んでいました。
ウォシュレットが導入される迄は、最後の尻拭き用で、濡れティッシュが置いてありました。
大便の後は、それを他人に見られたくなくて、ちり紙を上から落として隠してた。
マナーの良い子供です。
因みに、自宅は、ぼっとん便所の上に椅子を置く簡易式洋式トイレでした。
コレはコレで用を足した後に、便器の底にある蓋が重みで開閉するのですが、肥溜めの底が見えないものの、蓋が開閉する度、その音が部屋に鳴り響くのが嫌だった。

祖父母と母親、最後の弟子だった母親の従兄弟
祖父宅にて

理容室を営んでいた母方の祖父母の家も、歩けば10分程度の距離だったので、弟を溺愛してた両親よりも、初孫として可愛がってくれる祖父母の家には、一人でよく遊びに行ってました。

床屋の前は川と田んぼだったので、よく川に入っては、ザリガニを獲ったり、その尻尾を焼いて食べたり、稲刈りが終わった頃の田んぼでは、毎月従姉弟が、祖父母の家に泊まりに来ていたので、弟と一緒にカラーボールとバットで野球したり、凧揚げしたりと遊び場でした。
今では、田んぼで遊ぶ子供見ないですよね…汗

年子の弟と従姉弟

そんな祖父ダイサクジィちゃんは、戦後、理容師として成功して、沢山のお弟子さんが居たそうで、当時は家に住み込みで、イロンナ人が住んでいました。
その当時の職人さんと言えば、ヤクザから足を洗って、手に職を付けたりや、女性が手に職を付ける選択肢としての場所でした。
祖父は、そんなお弟子さん達に、麻雀や賭け事を覚えさせて、麻雀で一人勝ちしては、支払った給与を取り戻していたそうです…笑
今思えば、悪どいジジィです笑。

この頃の床屋は、必ず週刊誌としてジャンプやマガジンが置いてあり、子供が行くと、カッパえびせんなどお菓子を渡していました。
文字が読める様になって直ぐ、絵本代わりに週刊誌を読んでいたので、漫画デビューは早かった。

ある日、最後のお弟子さんである母の従兄弟カツヒコニィちゃんに、リーゼントっぽいイメージでパーマをお願いしたところ、アフロヘアーっぽくされて、泣いたコトもあったなぁ。
色黒ギョロ目なので、アーノルド坊やの様だった。

祖父は、車の免許は、持って無かったけど、オートバイのカブ後部座席に僕を乗せて、あちこち連れて行ってくれました(もちろん違反ですし、ヘルメットも被ることなく、落ちない様に必死に祖父の腰を持っていた記憶しかない)。
多くのお弟子さん達や友人が、祖父の還暦の祝いで祝賀会を催してくれた時も、自ら腹踊りをするなど、周囲を楽しませる様な人でした。

母は、二人姉妹の長女なので、祖父からは、いつも母方の姓を継がないかと、言われていたのを覚えています。

祖父は、理容師を営みながら、町会議員にも立候補して(父方の祖父も製麺所営みながら、町会議員やっていたのですが、商売人の流行りだったのかな)、TOP当選で歴任していたのに、ある年の選挙にて、友人が出馬するからと、自らの応援表は友人に投票してくれと演説を行ったところ、友人は見事当選したものの、本人は初の落選。
このコトがキッカケで、プライドの高い祖母は、外を出歩けないと鬱病を発症。
晩年は、僕が小学2年の頃、62歳、肺がんにて他界してしまいます。

祖父が亡くなった後は、床屋は閉店。
父が建てた自宅には2年ほどしか住むコトなく、祖母と一緒に祖父母の家に住むコトになりました。

僕と年子の弟と6つ下の弟

僕が、10歳の頃にファミコン(ファミリーコンピューター)が発売されました。

その前の遊びと言えば、お守り役として弟を連れて、商店街の近所のオニィちゃん達に混ざって遊びを教えて貰っていたので、コマ回しも、小学低学年から、コマに鉄の芯を叩いて入れたり(九州は、木製のコマに鉄の芯を打って回します)、その鉄の芯の先をヤスリで研いで、回りを良くしたり、喧嘩コマとして、相手のコマに投げつけたり、手乗りコマとして上から落としたりしながら割ったりと、逞しい遊びをやっていました。
リーグ戦で長くコマを回したモノが勝者で、何代目戦など名称をつけて争ってました。
確か僕は6代目だった気がします。
そのお気に入りの赤いフチの6代目コマを割られた時は、泣いて帰ったなぁ。

他には、泥団子作り。その辺りの土を丸めて、唾で固めて、サラサラの土で表面に磨きをかける。
そして、お互いの泥団子を交互に、上から落として割る。
中に石を入れて反則する、姑息な小学生もいたなぁ。
創作と破壊の毎日です笑。
複数のねずみ花火の火薬を一つに集めて、紙に包み直して、砂場の砂に埋めて導火線に火をつけて爆発させるとか、危険な遊びも日常でした。
遊具含めて、危険な遊び道具がいっぱいありました。

ビー玉なんか、今の若いコに渡しても、綺麗だと眺めるだけですが、地面に5箇所穴を掘って、指で飛ばしながら、穴に全て入れていく天下統一という遊びもやっていたし、コレは相手のビー玉を穴に入れない様に、自分のビー玉で弾いたりと、マニュアル本は無いものの、そのルールを教えて貰い、また自ら作り遊んでいました。

スーパーカー消しゴムは、本来の消しゴムの様に、鉛筆消せないのに、学校に持って行って、休み時間に、机の上に乗せて、ノック式ボールペンで弾く(この頃の遊びは弾いて飛ばすばかり)。

近所の空き家は、勝手に潜り込んで秘密基地にして、放課後、皆んなと遊びの作戦会議。
ある日見つかって、親と一緒に謝りに行ったコトもあります。
スーパーの発泡スチロールと木片で、小舟作って、川を下っていると、道路として塞がれた中も進んで行くと、大きな川に入ってしまい、危うくそのまま流されてそうになったりと、よく生きているなと思います。

この後、最後に、オニィちゃん達と遊んだのが、キン消し(キン肉マン消しゴム)とチョロQ。

キン消しは、紙相撲の応用で、箱の側面を叩きながら相手を倒すのですが、キン消しの腕を輪ゴムで前向きに縛って、熱湯に入れて暫く置いて冷ます。
そうするコトで、カタチが変形して前に倒れる様になります。主人公のキン肉マンは、なかなかガチャガチャで当たるコトなく、僕が好んで使っていたのは、ビック・ザ・マウンテンとバッファローマン。
コレも、一時期、負けると取り上げられるルールが適応された時期があり、取り返すのが大変だった。

発売時は小学1年生

そして最後がチョロQ
少し上のオニィちゃん達は、ラジコンでしたが、組み立てる技量も、お小遣いもなく、コロコロコミックに掲載されていたゼロヨンQ太に影響を受けチョロQにハマりました。
思い入れが強く、50歳になった今でも、集めています。
現在では、自称全国屈指の古参コレクターとして、4,000台以上(コレ以上数えておらず、たぶん倍はあると思います…汗)所持しており、たまにメディアにも出るほどになりました。
チョロQの話題は、別途記載します。

この後、ファミコンが発売され、昭和の遊び方が一気に変わります。



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