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我ながら、よく生き残れている

まえがき
偏差値50の地方高校→専門学校の低学歴の僕ですが、 両親の会社倒産→夜逃げを経験し、生命保険の営業から、製薬会社のMRへ転身。
会社では、早期退職で一度手をあげて、次はポジションクローズを受けながらも生き残り、外資系企業5社を正社員で転職しながらも副業で、医食住それぞれの分野で3つの会社を立ち上げました。

今年50歳 第二次ベビーブームの競争時代に生まれ
次の世代を担うはずだと期待されていたはずが、お受験競争、就職時にはバブル崩壊の超氷河期、その後も震災やリーマンショック、コロナ禍など、会社勤めでも、バブル入社が幅を利かせ、次は僕らかと思えば、若手や女性の管理職採用ブーム。
見渡せば、人口分布だと、両親達の段階世代の次に多いはずなのに、フリーターや引きこもりが最も多い世代。
よく生き残れたなぁっと。

多趣味含めて、誰かのナニか人生のヒントになれればと、リアルな人生振り返って書いてみます。

序章
1973年教科書だとオイルショックに産まれた僕は、団塊ジュニア世代。
両祖父共が商売人だった為か、両親は僕が産まれた時には、炭鉱町の商店街で小さな雑貨屋を営んでいました。
当時、父親は26歳、母親は24歳。
母方としては初孫。
父方としても、男の孫は初めてだったので、期待されて産まれてきたはずなのに、翌年には年子の弟が産まれて、新しモノ好きな両親、特に父親は、弟に溺愛。
産まれ直ぐに、僕の存在価値を示す人生が始まりました。

母と僕…ナニか着せる服なかっただろうか?

放置エピソードとして、この頃の人達の価値観なのか、うちの両親の価値観なのか、玄関の鍵は常に開きっぱなし。
僕がスヤスヤ寝ていたからと、両親は、弟連れて、お隣の商店街仲間の家で酒盛り中。
外で子供が泣く声が聴こえて、もしやと思えば、まだ立って歩けない僕が、どうやって戸を開けたのか?ハイハイしながら、道路に出てきてたらしい…汗
誘拐(身代金払う金も無いだろうけど)や車にはねられなくてヨカッタ。

天上天下唯我独尊と既に独り立ちする意思を持ってます

振り返ると、この頃の写真には、両親と一緒に写っているモノは数少なく、馬に誰の補助もなく乗っている写真や、危険なモノが多い。
今も昔も若い両親あるある?ペット感覚だったのかなぁ?

炭鉱町育ちらしく木刀持たされてます

モノがない時代
商品を仕入れると、売れる時代だったので、両親の雑貨屋は、そこそこ繁盛していて忙しく、保育園も、近所のおじさんがお迎えにきてくれていました。
このお迎えについては、弟は年子と、6つ離れた弟が出来たのですが、小学生の低学年の頃には、三男のお迎えには僕が行ってたほど、おおらかな時代です。

それから50年
放置されても、たくましく育っています

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