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1 エルサレム大通り

関口時正

 『人形』の第二版が出ることになって、何ヶ所か訂正を施していただいたが、初版からの変更でいちばん規模が大きくなったのは、「アレイェ・イェロゾリムスキェ」と音訳していた通りの名前を、すべて「エルサレム大通り」にしたことだった。なぜそうしたのか。
 もともと、通りや建物などの固有名詞は、住所として実地で「同定」できないといけないと思うので、なるべく原語の音を片仮名で写すというのが原則だった。その原則を破り、物語らしさを出すために、名称の意味を優先したのは「クラクフ門通り」とルビ付きの「新世界通り」くらいだった。思えば、「アレイェ・イェロゾリムスキェ」もはじめから「エルサレム大通り」にすればよかったものを、訳しながら迷いがあって、結局決めきれずにいたのだ。だが、第二版には別紙で折り畳み式の大きな市街地図も添えられたし、かりに現代のワルシャワへ旅行しても、色々な資料とひきくらべれば、「エルサレム大通り」がAleje Jerozolimskieを指すことはわかるだろうと思った。

 そもそも世界各国の首都で、「エルサレム通り」というような名称の道路があるだろうか。
 ワルシャワの場合、少なくとも都心を東西に走る通りの中ではもっとも重要な幹線道路、いわゆる交通の大動脈にエルサレムの名が冠せられ、それが19世紀、20世紀を通じて、政治体制の頻繁な変遷にもかかわらず、変わることなく残っているのは、じつに味わい深い事実だと思う。

 アウグスト・カジミェシュ・スウコフスキ公(1729~86)が、ワルシャワ市の西南、市境検問所に接して所有していた土地に「ノヴァ・イェロゾリマ(Nowa Jerozolima)」つまり「新エルサレム」という、ユダヤ人のための住宅団地をつくったのは1774年のことだった。現在の地名で言えば、ザヴィシ広場からカリスカ通りあたりまでである。
 市中はもちろんのこと、市の城壁から2ミラ(14~15 km)以内の範囲では、ユダヤ人が居住することも商業に従事することも禁じられていたにもかかわらず、自分の土地とはいえ、ユダヤ人を住まわせたスウコフスキには、農奴制の廃止、死刑や拷問の制限を唱える、いかにも啓蒙君主らしい面影があった。彼はユダヤ人の経済活動を制限する法制を改めようと運動し、ヴィエルコポルスカ地方にあった自らの「本領」リズィンの町では、シナゴーグやユダヤ人共同体の設立を許可するなど、ユダヤ人の地位向上を図った。
 しかし「新エルサレム」団地建設は違法であるとして、スウコフスキはワルシャワ市から訴えられ、ユダヤ系住民の抗議もむなしく、1776年1月23日に撤去された。住宅群は破壊され、住民たちの財産は没収された。つまり、「新エルサレム」という立派な名前の団地が存在した時間はわずか二年にもみたなかったのである。
 それにもかかわらず、「エルサレム大通り」という名前だけは、しぶとくもその後の250年を生き残った。三国分割があり、二つの世界大戦があり、ナチスに占領され、ソ連によっても半ば占領されたポーランドは、町の名前、通りや広場の名称もさまざまな変遷を経験してきた。今でも名称の変更は起こっている――たとえば政権の交代に関連して――にもかかわらず、この幹線道路の名は残ったのである。

 『人形』は、近代ポーランドの「内部」に出現したユダヤ人たちのさまざまな像を、彼らの存在様式と密接に関わる、都市の「構造」とともに活写し、記録した小説だった。日本語では何の意味も連想もない「アレイェ・イェロゾリムスキェ」という表記をやめて、意味も連想も確実にある「エルサレム大通り」に変えた理由がここにある。

人形地図_2色

『人形』第二版から入った地図。*赤線がエルサレム大通り、印刷では青部分はグレー

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