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1 「詩は散文である」について 第三回

工藤正廣

 ところで、日本の現代詩人はなぜそのような、詩から散文への変容過程を拒絶するのだろうか。詩は詩でしか書けないというのもわかるが、もったいないことだ。みずからの詩から、どのような散文が生まれるのか、関心がないのか。詩人たちが大いに力を傾注して、批評や評論などを書くのはいいけれども、もったいないことだ。詩集をたばねることもいいが、それらの詩から、どれだけの創造的散文が生まれるだろうとおもうと、まことにもったいないことだろう。
 わたしにはろくな詩集もないのだが、わたしのばあい、詩はどこにでもあるのだから、散文で、物語で、それを拾うことでいい。半世紀もロシア語文学の翻訳にたずさわったものとして、わたしはおそらくは、たとえば一篇の詩から、散文あるいは物語としての翻訳をこしらえたいとしているにちがいない。そうしてそのような散文もしくは物語は、詩の宝蔵のような気がするのである。(終わり)

このエッセイは詩誌『午前』15号より転載させていただきました。


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