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占いは、いらない。

その男と知り合ったのは、かれこれ二十年前になるが、思えば2人っきりで呑みに行くのは初めてだった。

彼は、いまだ土葬の文化が残る関西の小さな村の生まれだという。

驚いた。
日本の火葬率が100%ではないのは、てっきり事故か何かで埋葬できない方がいるからで、とっくになくなった風習だと思っていた。

聞けば、大きな桶に座るようにご遺体を入れるとか。

「ドリフのヤツじゃんか」と思わず不謹慎な発言をしてしまったが、あれはちゃんとした元ネタがあったということを初めて知った。というか、考えたこともなかった。

そんな稀有な風習の残る村出身の彼のご両親は農家を営んでいて、「トラクターとか高んだよな」とぼやいた。

東京のコンクリートジャングルで生まれ育った私にとって、彼の話はいちいち面白かった。

学生時代は、演劇に没頭したという。

私はこれまで自主的に演劇を見たことがない。どうも目の前の舞台が、場面場面によってここは月面ですとか、戦場ですとか、設定が変わるのが苦手で感情移入できないのだ。

そして、彼は演劇に没頭するあまり学校にもほとんどいかなくなった。怒ったご両親は彼を下宿から自宅に連れ帰り、なんとか卒業できたという。

彼のそういうどこかネジの外れたところは、社会人になっても変わらず。
20代後半に差し掛かった頃、優秀なクリエーターとして私のいた会社に入ってきたのだが、制作以外の事務作業や校正といった細かな作業がボロボロで、生活態度もグータラ。

やや潔癖気味で神経質な私とは、えらく違うタイプの人間だった。

彼と出会った日のことは、よく覚えている。

私は彼の入社面接を担当した。もともと優秀なクリエーターという触れ込みだったので、ほぼ確認程度だったのだが、履歴書を見た瞬間、「うそでしょ!」と叫んでしまった。

生年月日が私とまったく同じだったのだ。

同じ日、というのならままあるかもしれないが、年まで一緒という人間と出会うのはかなりレアではないだろうか。

つまり、私が生まれた日に、彼も生まれた。そして、それぞれの人生を歩んだ末、小さな会社の小さな部屋で小さな机を挟んで向かい合っている。

あれから20年経ち、彼はスキンヘッドとなり、年齢相応に丸々としている。一方私はといえば、頭髪はなんとか粘り、体型はいまだ中学生のように自転車に乗りまくっていてほぼ高校時代と変わっていない。

年代物の中古車を直し直し乗り続け、自宅ではレコードをかけ、子どもとサブカル系のライブに行ったりする彼に対して、ミニマリスト気質のある私は車もファッションも特段のこだわりがない。コンサートもいかないし、CDも1枚も持っていない。

表現者の端くれという職業は近しいが、本を出版する度に情緒が不安定になる面倒くさい自意識過剰な私と違い、彼はSNSを駆使して、個人でラジオ番組みたいなことまでやってしまうほど自己顕示欲を堂々と曝け出すことができてしまう。

同じ瞬間(日)に生まれたけれど、やはり人間大きく異なるものだ、と私は彼のことを思うたびにいつも感じるのだ。

彼は私の人生観を大きく変えた、というと少し大袈裟だが、私の生活における一つの習慣をやめさせた。

占いだ。

子供の頃に動物占いが流行り、確か「クリエイティブな狼」かなんかだった私はえらく喜んだものだが、もはや何も感じない。

雑誌の巻末にあるような今月の運勢とか、朝の情報番組の「今日の運勢」なんかも以前は多少は気にしたものだが、もはやまったく興味がない。

彼と私がまったく異なる時間の中を過ごしていると思うと、当たるわけもないし、意味のないものだと思ってしまうのだ。

占いや占い師の方を非難するつもりは毛頭ないし、それによってポジティブになれる人がいるのも事実だから、社会には必要なものなのだろう。

私にとっては、不要だというだけだ。

悪い運勢を見ても心がざわつかないようになったのは、彼と出会ったおかげだ。

今月は私たちの誕生月。
誕生日には、お互いお祝いメッセージを送り合うのが、出会ってからはじまった新しい習慣である。

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