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続 手のひらに親という負債を握りしめて産声をあげてしまったすべての人に(週報_2019_05_18)

前回、母のことを綴ったnoteに複数の方から身に余るほどのサポートをいただきました。
あらためてそのお礼を言わせてください。
本当にありがとうございます。

頂戴したサポートで母に梅春物の柔らかいパジャマと、ラジオと、後述しますが上等な爪切りを購入させていただきました。

そしてたくさんの拡散をありがとうございました。精神的に余裕がなく、一つ一つのRTにお礼を言って回れなかったことをどうかお許しください。

おかげさまで、母はだいぶ元気です。
問題は山積したままですが、母の代わりにお礼を言えることが私は嬉しいのです。

▼前回のnote 約10000字、
お時間があるときに読んでいただけたら幸いです。

3月半ば、受診した病院で脳梗塞と診断され、その足で入院生活が始まると、母は毎日のように帰りたい、と口にするようになっていた。

「ここは綺麗な監獄だわ」

大病院の窓の外、青々と茂った林とまばらな民家を見下ろしながらため息をつく母。
入院費の概算をもらってきたばかりの私は『こんな至れり尽くせりの監獄があってたまるものか』と言いたくなる気持ちをぐっと抑え「この機会にゆっくり休養するしかないよ」となだめる。
”投獄”がこんなに続くとわかっていたら、きっと母は受診すら拒んでいただろう。

入院から2週間ほど経つと、背びれのない金魚のように不気味に浮腫んでいたその顔からは随分と腫れが引き、顔色もいい意味で褪めたように感じられた。
しかしいつまで経っても母は軽く斜視が入ったままで、どこかぼんやり、私ではない何かを見つめているようだった。

布団の中、母の冷たいであろう足をさすろうと手を入れたときのことだ。
・・・?
冷たくも温かくもない、硬い感触がした。
童話に出てくる、ものを喋る老木のように長く伸びた、母の、足の爪だった。
母の爪は、それぞれがそれぞれに変形し一つとして同じ形のものはなかった。
羊の角のようにぐるりと巻いているものもあれば、前に長く伸びるはずの分量が全て厚みとなり硬化しているもの、巻き爪をこじらせて指に肉にこれでもかというほどに食い込んでいるものもあった。

「見えなくて、切れなかったのよ」

これが違和感の正体か。
母の目はほとんど見えていないと言うのだ。
どこか焦点の合わぬその両目は、ずっと私の声の方角だけをおろおろと辿っていたというのか。
「ばかね、言ってくれればよかったのに」と母の入院用に買った備品の中から爪切りを取り出したが、10本もある爪の1本たりとも一般の爪切りの切り口に挟むことすらできなかった。

母の身体を傷つけるのが怖かった私は今度上等なニッパーを買ってきて切ろうね、と母に言った。
母は迷い子のような視線を一瞬だけこちらに向けて、ありがとう、と頷いた。





片道3時間弱もかかる病院には、行けても週2回の休みの日に行くのがやっとだった。
入院費節約のためパジャマのレンタルはやめていて、その分は病院から比較的近所に住む妹が洗濯物を届けに足繁く通ってくれていた。
十代も半ばの頃、殴り合いをするほどに仲の悪かった妹が、いつの間にか尊敬できる部分を持った大人になっていたことが非常に心強かった。

…心強い反面、私よりも頻繁に母に会える妹が、妬ましいと思う自分がいた。

お母さんの役に立ちたい合戦だと、私は思っていた。
妹にそんな気があるのかどうかはわからない。
だけれど私の中には小さく、決して消えない、小さな1つの炎が灯っていた。

私が、私の方が、お母さんの役に立つんだ。

こうなると負けず嫌いの私は、勝つことに見境がなくなる。
自分でもよくわかっていた。
たった1杯のカフェオレを届けるためだけに片道3時間近くかけて週に何回も病院に通う私こそが病気だと。





リハビリ病院への転院は、転院を勧められた3日後に突然決まった。
もちろん急なので無理です、と順番を待っている次の人に譲ることもできたけれど、2日と空けず通ってくれている妹の自宅にさらに近くなるまたのない機会であったので、私は急遽仕事を休み、母の転院に立ち会うこととなった。

その前日にも役所に出向く関係で1日休みをとっていたので、思いがけず連休になってしまい職場では一層肩身が狭い。
往復2,000円で両日行き来をするよりも宿泊したほうが安く上がるので、前日は役所回りを終わらせてネットカフェに泊まることにした。
病床とまるで同じサイズの、硬く四角い部屋で押し黙り、眠れない夜を過ごした。



転院の日、指定された時間に病院へ出向くと、担当の看護師さんより病室で待つように伝えられる。
少しすると転院先から無料の車が到着したので、朝食の済んだ母と荷物を先に載せてもらった。
計算が終わり会計へ向かう旨を指示されたので、お世話になりましたと深々頭を下げる。

「会計に分割と伝えてあります。
 転院先にも会計は分割をご希望ですと連絡が済んでいます。
 どうぞお大事になさってください。」
入院時に一番親身になってくれた医療相談員さんは最後まで本当に優しくしてくれた。

しかしその後、会計窓口に行ったら全く話は通っていなかった。
医療相談員さんの不備ではなく、これだけ大きな病院のことだからきっと会計の誰かには伝えてくださったのだと思った、ただその方が今は不在だというだけで。

当然全額を(もちろんそれが当たり前で窓口の人は何も間違ってはいない)請求され、またイチから私は母のことを、年金がなく、収入も貯金もなく、健康保険も滞納していて…と話さなければならなかった。

いや、話さなくて良かったのだ、お金がないんですと。
ないものは払えないのだから、ただ簡潔に事実だけを伝えれば良かっただけなのに、私はこの期に及んでまだ言い訳をしたかった。

不審そうな表情を浮かべながらも、分割払いの誓約書のフォーマットを差し出され、私は毎月無理なく支払えるであろう小さな額を4月、5月、6月…と順に書き込んでいった。

「今日いくらか入れていかれますよね?」
と聞かれ、念のためにと今朝方おろしたばかりの現金を支払った。
私の財布の中の滞在時間、わずか数十分、と思ったらなんだか口元からだらしなく笑いが漏れてしまう。
よく人が死んだニュースなんかで不謹慎にもヘラヘラと笑ってインタビューを受ける一般人はこんな気持ちなのだなと無意味な共感をした。



車に乗り込み、母と運転手さんに「遅くなってすみません」と頭を下げる。
私が何故に手間取っていたのか、母は知ってか知らずか、静かに頷くだけだった。
要塞のような大きな病院がバックミラー越しにみるみる小さくなっていく。
いつも見下ろしていた景色の中を今走っていること、母は何か感慨があるのだろうか。

大きな病院の横には大きな煙突が立っていて、私は病院の隣に焼き場があるのかと効率よくベルトコンベアで焼き場に運び込まれて行く入院患者たちを思い描いていたところ、あれはゴミ処理場なんですよ、と品良く長身の運転手さんにやんわりと否定された。

大きな国道を渡る道路は混んでいて、距離こそたいしたことはなかったけれど車はなかなか進まない。

「お母さんさあ」

私が口火を切った。

「兄弟のうち、私だけでも大学に行かせてくれればよかったのに。
 そしたら私、今頃は元がとれてたよ?
 せっかくこんな貧乏な家に、こんな賢い子供が生まれたのに、ばかだよねえ。」

久しぶりの外の世界に高揚気味の母は「そうだね、あの頃はあんたがこんなに賢いなんて知らなかったんだよ」なんておべんちゃらを言うものだから、調子づいた私はさらに余計なことを言ってしまう。

「もう今言ってもしょうがないけどね。
 来世、来世ね、来世はちゃんとしてよね!」

すると母はうふふと笑って

「また来世、ご縁があったらよろしくお願いしますね。」

なんて言うので、私はそこから泣き出さずにいるのがやっとで鼻の付け根にぎゅうっとシワを寄せた憎たらしい顔のまま、何も言えなくなってしまった。





行き着いたリハビリ専門の病院はほどよく小さく、ほどよく綺麗すぎず、そこがむしろ身の丈に合っていると私もおそらく母も、勝手にほっとしていた。
看護師さんに母を、運転手さんに荷物を任せると、私は事務手続きをするために受付へ向かった。

嫌な予感はしていたが、やはりここでもお金の話はまったく通っておらず出向くなりすぐに「入院保証金10万円です」と言い放たれたので(もちろんここでもそれは当たり前で窓口の人は何も間違っていない)、懲りない私はまたここでも最初から、これこれこういうわけで、という大演説を披露してしまった。

私の事情なんて、事務の人には何も関係ないこと、払える・払えない、この場合後者はあり得ないが、とにかくどう払う、いつ払う、どれだけ払う、それしか求められてはいないのに、どうしてもどうしても私たちの物語を止めることができなくて、自分の見苦しさ、往生際の悪さに心底嫌気がさした。

結局また兄弟で話し合って月末までに連絡を入れるように念押しされ、保証金のうちの一部をまた私の財布から支払った。

「保証金も一括で支払えないのになんで転院なんかしてきたのよ」

事務の人の、最初に迎えてくれた笑顔とは真逆の三角の目が、私にそう言っているようで逃げるように背中を向けてその場を離れた。
皆それぞれに自分の仕事を全うすることに一生懸命なのだから、誰もわるくない、そう、私たち以外は、誰も。

病室の手前で自分の頬を2回叩き、入室すると母は看護師さんから室内の説明を受けている最中だった。

もうすぐ12時で、母には昼食が出るけれど当然私には出てくる食事などない。

お腹、空いたな。

朝が早かったし、何より寝不足でその日はまだ何も食べていなかった。
看護師さんと話しているうちに、この辺鄙なところにある病院の周辺には飲食店はないどころか、更に駅に戻る無料のシャトルバスは12時20分を逃したら次は18時までないということを知る。

即座に次のバスで帰宅することを判断し、母にごめんね今日はもう帰るねと慌しく伝えると、母の黒く筋張った手が私の白く丸々と太った手を握って「ありがとうね」と言った。

…お腹が空いたなんて思ってごめんなさい、母の手の冷たさを思いながらシャトルバスの中で1人鼻を啜った。





とはいえ、私にはセンチメンタルに浸っている時間などなかった。
転院前の病院の精算に続き、月末が近づくと母の住む自宅の家賃、駐車場の賃料、母が仕入れをしていた古本屋の倉庫の賃料、さらには水道光熱費、すべてが重くのしかかってきた。

母が入院して1ヶ月近く経とうとしていたが、母を見舞いに訪れた人間は私の知る限りでは1人もおらず、社会から孤立した母の姿を見せつけられたような気持ちになる。

その一方でこちらの事情などおかまいなしに次々届く請求書と複数の大家からの不在着信。
大人1人が突然活動を止めるということは大変なことなのだなぁと、これ以上はないほどの当事者なのにまるで他人事のように思った。



1ヶ月の入院生活で、母もだいぶ心の整理がついたようだった。
始めのうちは、退院したらすぐに廃業に向けて片付けを始めるので車を車検に通しておいてほしいとか、あの荷物は売れるから絶対に捨てないでくれだとか、やり残してきた仕事にすぐに戻れるつもりで懸命に自己主張を繰り返していた。
しかし支えなしに歩けない人間に重い荷物を運ばせたり、ましてや目が見えない人間に運転などさせられるわけがない。

「倒れた日に一度死んですべてを失ったと思って、新しい人生を生きるための心の準備をしてほしい」

そう何度も説得し、車は廃車にすることをようやく納得させた。
廃車手続きは家が近く、足がある妹が快く引き受けてくれたが、母に廃車をすることの意思確認はどうしても可哀想で出来ないと、嫌われ役は私がやるしかなかった。

嫌われ役とは言っても、母は今、私を嫌うことなどできるわけがない。
今の母は、私と妹だけが外の世界と繋がる手段で、私と妹だけが頼りなのだから。

私が嫌われ役を買って出るかわりに、ゴミ屋敷だった母の自宅を妹と妹の旦那さんで片付けを進めてくれていた。
本当に大切なものであれば絶対に再発行ができるはずだ、世の中に再発行のできない大切なものはない、という私のハッタリを信じて、とにかく全てを捨てまくった。

退院して帰ってきたら、母に人間らしい、そう、まさに、健康で文化的な最低限の生活をさせるのだ。





順調に実家の片付けが進む中、私にはまだ別のやるべきことがあった。
生活保護の申請だ。

前回は窓口への相談の時点で難しいと言われ申請書すら出していなかったこともあり、今回は申請書だけでも受け取ってもらえるような準備を確実に整え、役所を訪問した。
本来、審査においてそんな部分で結果が左右されることではないとわかっていたが、この日のために私は髪を黒く染めた。

必要書類を全て記入すると、連休前になんとか調査に入れるように調整しましょう、と翌日に調査員が病院への聞き取りに出向いてくれることとなった。
対応の早さに感謝しかなかったが、目の見えない母には家族の立会いが必要とのことで身を縮めながらまた職場に明日も休みたいという旨の連絡を入れた。



役所帰りのその足で母の病院に顔を出すと、母はラウンジで他の病室の人と楽しそうに会話していた。
コロコロと丸く肥えた影がどんどん近づいて、娘だと認識できるくらいの距離になるまで母は不思議そうな顔をして私との間の空を見つめていたが、その表情がふわっと綻ぶことでやっと私の顔が見えたのね、とこちらも頬が緩む。

「うちのおねえちゃんなの、なんでもできるすごいおねえちゃんなのよ」

母が誇らしげに入院仲間に私を紹介するものだから、やだやめてよ、なんて素っ気ない言葉を返してしまう。

2人きりになってから「申し込みをしてきたから、明日調査の人が来るよ」と小声で母に伝えた。
「そう、ありがとう」と母。「また明日も来るからね、何も心配いらないよ」と告げると、そんなに毎日大丈夫なのかと母が心配そうに呟く。
大丈夫よ、そんなことより知り合いができたのね、前の病院より自由があって少しは楽しそうね、と話を逸らす。

「ここは天国かもしれないね」

母が1ヶ月前とは正反対のことを言うので、そうね、囚われたままに居てくれるのならその方がずっと安心なのに、と困ったような顔をしたまま塀の外を眺め、明日も休みたいと伝えたときの上司の不機嫌な相槌を思い出していた。





翌朝、役所の人が指定した時間に病院に到着するには、朝5時にはシャワーを浴びなければならなかった。
帰宅して、夜のバイトに行って、終電で帰宅して、仮眠。

なんだか最近身体は疲れているのにうまく眠りの糸口を掴むことができない。
結局眠れぬままに5時には這い起きて、頭を揺らしながら髪を洗った。
電車の中で眠れば良いかと思っていたのに早朝の電車は既に座れるような混雑ではなく、当てが外れる。

チャージしたばかりのSuicaがタッチするたびにみるみる減っていく、往復2,000円はやはり大きい。
差し引かれる金額を見るたびによせばいいのに『夜勤1時間分』などと心の中で指折り数えてしまう。
早い時間には無料のシャトルバスの運行はないので、ガラガラの路線バスの後部座席で家から握ってきた塩と海苔だけのおにぎりをこっそりと食べた。



私が病院に到着後、ほどなくして生活保護の調査担当の男性職員が1名、来院した。
民放の新人アナウンサーのような、若く、生真面目そうな青年だ。

母の病室のあるフロアのラウンジで、まずは前日に提出した書類の確認をする。
いくつか不足があったため、後日の提出を言い渡され、私も慌てて手元の冊子にボールペンの字を走らせる。

この日の最も重要な案件は、保護申請に至るまでの母の生育歴の調査だ。
生まれてから今までの居住地・環境・職業・結婚、すべて母の話を聞き取り、メモをとっていく。
驚いたのは、前日午後に提出した書類の内容の大半を、既に彼が精査してきていることだった。

さらに今日母から聞き取った全てを時系列に並び替え、審査のための正式な書類を作るのだろう。
60年もの出来事を数枚のレポートにまとめるのだ、並大抵の作業ではない。

それなりにまともな家庭に生まれ、公務員を目指し、大学を出て、志高くたくさん勉強もしてきただろうに、こんなところに配属されて結婚離婚を繰り返すだらしない人たちのだらしない人生を清書させられる。
罰ゲームのような仕事を、こんなに粛々とやっている彼に後ろめたい気持ちでいっぱいになった。



聞き取りは、母がこの世に生を受けたその時にまで遡った。
久しぶりに外の人間と話すことに少々興奮していたのだろう、母はいつもよりも饒舌にそれは楽しそうで、まだ元気だからと審査の結果を左右したらどうしようと私は気が気でなかった。

何十回もの脱線を繰り返し、母の歴史の中でやっと私が登場する。
私が4歳くらいになって以降のエピソードは母よりも私のほうがよく覚えていて、先ほどまで母の脱線を制していた私が今度は逆に主導して回り道をさせる展開になり調査員の青年はほとほと頭が痛かっただろう。

だって、止まらないのだ。
母との日々が、次から次と、止まらないのだ。

暴走しているようで、私はきちんと落とし穴を回避していた。
母は私を施設に何度も預けたことを、なかったことにしている。

「生活がどんなにきつくても、子供を預けることだけはできなかった」

母の中ではそれが真実なのだ。
私が貸した祖父母の葬儀費用何十万も、母の中では伯父たちから集めたことになっている。

母がそうだと言うのだから、そうなのだ。
だから私は器用に母の作り上げた真実をなぞって行く。
施設で虐められた日々も、義父に虐待された日々も、まるでなかったことのように涼しい顔をする。
そんなとき、私は正気のまま狂っている。

私が1人物思いに耽っている間に、聞き取りは母が古本屋を開業する場面まで進んでいた。

駅前に小さな古本屋があって、死んだ祖父が「おまえは本が好きだから」と母にパート募集のチラシを貰ってきてくれた。
片田舎のヤンキー上がりの母が、二度も子連れで出戻ってきた母が、本が好きだったなんてエピソードはにわかに信じられない。
だけど、だからこそ、祖父の”自分の娘は本好きだ”という贔屓目に、底なしの愛情を感じる大好きなエピソードだ。

その祖父の期待に応えようとしたのか否か、真意はわからないが母はとにかくよく働いた。
昼は古本屋のパート、夜は割烹料理屋、帰ってからは在宅でワープロの仕事をしていて、私は母が布団で寝ているところを見たことがなかった。

そんなことよく覚えているね、と言う母に、「だからお母さんは決して怠け者でこんなことになってるんじゃないんです」と涙声になってしまう。
だって見てくれよ、震える私の背中をさする母の、真っ黒な手を。
毎日毎晩古本を括り続けて箸も持てないくらいに曲がってしまったこの人差し指を。



母の前では泣かずにいようと決めていた。
母は知っている、兄弟で一番頼りになる私だけど、情緒が不安定で精神的に脆いのもまたこの私だと。
頼むから、そのことも一緒になかったことにしてほしい。
そしたらまた私はうまくその落とし穴を回避するから。

調査員の青年は、こんなこと慣れているのだろう。
いい意味で無機質な笑顔寄りの真顔を絶やさず、ラウンジで昼食の配膳の始まる11時45分きっかりに聞き取りを終了させ帰って行った。
エレベーターが閉まった瞬間「大丈夫だったかな?」と母が言うので「できることはやったよ」と母の歩行器に手を添える。

病室に一旦戻り、荷物をまとめる。
シャトルバスに乗り、不足書類、母の通帳を全て最新の状態に記帳してこなければならない。

「ああそうだ、これ」

と、砂糖不使用・糖質ゼロのチョコレートを1箱手渡すと、母は目尻を下げて今日一番の笑顔を浮かべた。

「それと、見て、これ。」

思い出したように私はスマホの画面を最大の明るさにして母の顔に近づけた。
何度か距離を調整しながら、その写真が何かを理解した母の顔からは先ほどまでの笑顔が消え、一瞬無表情になる。

しまった。
さっきまであんなに上手に落とし穴を回避していた私が、自ら掘った穴にズボリと肩まで入ってしまったような気分だった。
母のことを傷つけてしまった、そんな気がした。

私が1人うろたえていると「懐かしいね、そのテントは、2枚目」と母が言った。
「私が修学旅行の日の朝に台風で」私が言う。
「1枚目のテントが破れて飛んでっちゃって」顔を見合わせて母も私も笑う。

母に見せたのは、ネットで偶然見つけた母の古本屋、それも一号店の写真だった。
お客さんが5人も入れば空気が薄くなるような、小さな小さな店舗。
まだアル中になっていない、優しかった頃の義父が檜で立派なカウンターを作ってくれた。
この小さな店こそ、その後建てた一軒家よりずっと母の城だった。

個人経営としてはまずまず成功し、一時期は三号店まで店舗を増やした母の古本屋も、ネット台頭の時代の波に飲まれるように徐々に縮小を余儀なくされた。

私が母を経営者としてすごいと思ったのは店舗を増やしていたその時期ではなく、時代が変わったことを察知した瞬間になんのためらいもなく次々と店舗を引き払い、城であったはずの最初の店舗も、あっけなく手放してしまったことだった。

店舗を手放してからも、母は古書の仕入れ・卸の仕事を続け、収入を得ていた。
入院して2ヶ月近くが経とうとする中、もう古本屋のことは諦めてくれたのだと、どこかで私は慢心していたのだ。

母だってこんな終わり方をしたくはなかったはずだ。
人生の半分を捧げた職業を、母なりに愛していたこの職業を、こともあろうに私がぞんざいに扱ってしまった。

結果的に母は笑ってくれたけれど、私は動揺したまま、病院を離れた。
浸る暇などないはずの感傷ばかりが私に降りかかるのは何故なのか。
ヘッドホンをしても心臓の音が響く。
シャトルバスの客は今日も私しかいなかった。





母の全三冊の通帳のうち、二冊はバスを降りた最寄りの駅で記帳ができた。
残高は二冊合わせても3,000円少々。
残り一冊は農協で、これは県を越えた私の地元に戻ってしまっては絶対に記帳ができないため、寝不足の身体を奮い立たせて用を済ませて帰るほかなかった。

知らない駅の、知らない農協へ、徒歩25分、道が合っているのかと不安になりながら歩いた。
寒暖差が激しく、数日おきに暑さ寒さが入れ替わるような陽気で、たまたまその日は暑さが際立つ1日だった。
早朝から活動していたために一枚多く肌着を着込んで来た私の額はじわりと生温い汗の玉を浮かべている。

大きな国道を越えるために古びた歩道橋を上って、反対側をぼんやりと下りた。
歩道橋のてっぺんから見えたJAの看板をめざし、数ミリずつでもいいからと止まることだけはせずに歩き続けた。
立派な精米所の半分より小さい、ガラスに囲まれたスペースにATMがあり、そこに湿った指で慎重に通帳を差し込んだ。

『未記帳のお取引はありません』

要するに、通帳は最新の状態だった。
もちろんそれを証明する術がなかったのだから、全くの無駄足ではないけれど、なぜかそのメッセージと吐き出された通帳を見たとき身体中から力が抜けるような思いがした。













もう、つかれた



またゆらりゆらりと振り子のように、惰性だけで歩道橋を上った。
両腕は地面につくんじゃないかと思うくらいにだらりと垂れている。
肌色に塗られていたであろう手すりは雨によってひどく色褪せていて、めくれた金属の隙間には茶色い錆がびっしりと浮かんでいた。


この国道、転院のときに越えてきた国道だ。


大きなトラックがスピードを上げて何台も流れていく様子を時間も忘れ、眺めていた。
最初の頃、感極まったときにだけこぼれていた涙が、最近では悲しくも辛くもないときに流れたり、かと思えばしんどいなあと思ったときに一つもこぼれなかったりする。

硬いアスファルトが私の身体を吸い込んでくれることを望んでいたのに、時折ゴーッとけたたましい音が響く世界の中で国道と私はいつまでも混じり合わずにずっと平行のまま、存在し続けていた。

初めて訪れたこの場所で私がそんな気持ちになることを何十年も前から見透かしていたかのように、歩道橋の手すりには足をかけられるようなところが見事に一つもなかった。

身を投げるチャンスにすら恵まれていない自分に笑いが止まらず、気味悪く思われないよう背負っているリュックからマスクを取り出した。
マスクにはパステルカラーのうさぎの総柄プリントが施されていて、こんなマスクをしている人間はたとえ慟哭していたってどこから見てもご機嫌にしか見えないのだから便利だ。
今日初めてお気に入りのこのマスクが最大のパフォーマンスを発揮したぞ、と笑いながらわあわあ泣いた。

悲しいとき、つらいときには、みっともないほどに背中を丸める。
こころ、なんてものを私は目で見たことがないから勝手な空想だけれど、こころ、は私の想像の中では心臓のあたりにあるんじゃないかと思っているから、こころ、がこれ以上痛くならないように、心臓をできるだけ内側に引っ込め、守るように背中を丸める。

歩道橋の上で転がり出しそうなくらいに身体を丸め、痛みが無くなるのを待った。
もう二度と来ることのない知らない土地で本当に良かった、そう、本当に良かった。




ここ2ヶ月、何をするにも名もなき誰かに許されることばかり考えて生きていた。
何かを食べた、何かを飲んだ、と世間に知られれば「親に生活保護を受給させようとしているくせに無駄金使ってるんじゃねえよ」とどこかの誰かに叩かれるのではないかといつも怯えていた。

実際、たくさん投げ銭や激励もいただいた反面、硬い石を遠くからコツンと投げられたり、鋭い針でプスリと薄皮を突かれることもあった。
私はといえば、そのたびむせび泣いたり酷く落ち込んだり、要するに批判される覚悟なんて一つもできてはいなかった。
拡散してほしい、私のように、母のようにならないで、なんて、どの口が言うのか。

『真面目に生きてるのにどうしてこんな目に遭わなきゃいけないの』

以前、私が書いた言葉だ。
何十回と読み返すうち、この部分だけがずっと私のささくれに引っかかって後ろ暗かった。

私はそんな品行方正な人間なんかではない。
だからせめてお詫びに出来ることと言ったら、遠くから投げられたこの小石を投げた本人に投げ返すことなく、また私より弱い立場の誰かに投げつけることもなく、私の傍らに石花のようにそっと積んでおくことだけだ。



誰かと食事に行けば「美味しい」のすぐあとに「こんな美味しいものを、お母さんは食べたことがあるだろうか」と思ってしまう。
私は、自ら呪いにかかってしまった。
これから先、どんなものを食べてもこうやって小さな罪悪感を抱く、そんな呪いに。

そして何よりまずいことに私は今、すごく気持ちがいい。
泣いているのに、時に多幸感すら感じてしまう。
母の毒を皿ごと飲んでいる最中なのだ。
そうか、これが中毒、というものか。



硬く層になった母の爪はなかなか手強かった。
ネットで購入した高級なニッパーの切れ味は鋭かったが、爪が縦にひび割れれば母に痛い思いをさせてしまうから慎重に少しずつ角をとっていく。

金属とガラスと紙の爪ヤスリを駆使して、なんとか靴下に収まるように体裁を整えた。
切り落とされた爪の厚さが目視できない母は、つま先を指の腹で撫でて初めて「わぁ」と感嘆の声を上げた。



これだけ生きてきて、今初めて母が私のものになった気がする。
間違いなく、世界で一番私が母を必要としていて、それと同じだけ、もしかしたらそれ以上に、母が私を必要としてくれている。

母は私のものだ。


それは危険な思想だね、とあしながおじさんにたしなめられながら微笑む私の目はどろりと濁っていただろう。



審査の結果は、まだ来ない。

最善を尽くしたからこそ、これでダメだったらもう打つ手がない。
今ここが監獄で、それでも俗世よりずっと居心地が良いのなら、お母さん、私を殺してもいいですよ。

ああでも、暑さ寒さの厳しい時季に不自由な身体を引きずって、あなたが服役することは例え私がもう死んでいたってやっぱり目も当てられないよ。

だったら私が母を殺すか、なんて。
そんなこと出来るわけがない、だから私たちは消去法で生きるしかないのだ。



母がいなくなったら、父親のいない私のことを愛してくれる人間はこの世からいなくなる。
そしてそれは間違いなく、しかもそこまで遠くない未来、確実にやってくる。
だから今だけ、私にもっとこの中毒に気持ちよく浸らせてほしい。

だって毒が私の身体の中から消えてなくなれば、今度は果てしない禁断症状が始まるのだ。

母のいない世界という真っ暗な闇が、私を待っている。

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