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持たざる者でも涙は出るの(週報_2019_05_26)

秋に出すつもりの新人賞の作品を、まったく書き進めていない。
1ヶ月間、あしながおじさんから連絡が途絶えたからだ。

私は誰にも自分から連絡をしない。
他人の時間に割り込むことが苦手だ。
4月半ばに会ってからあしながおじさんの時間軸の中で私の存在が徐々に溶け出して、きっと跡形もなくなったのだと判断するしかなかった。

私に本を出しなさいと言い出したのはあしながおじさんだ。
彼がいなくなれば私に書く意味はない。
だから仕事から疲れて帰ってきて、這うようにしてPCに向かい眠い目を擦りながら小説を書くなんてこと、やめた。



仕事中、私の時間に無邪気に割り込んできたのはあしながおじさんの方だった。

『香港行ってました。
 お土産あるから飯行こう』

出た。
気軽な海外旅行。

なんだよ、私の気も知らないで。
先月行ったお店でナイフとフォークがちゃんと使えなかったこと、そんな女を連れて歩いて恥をかかせてしまったなと、ずっと気に病んでいたのに。

海外行くなら言ってくれたらよかったのに、と思いかけて、すぐに、言う必要なんて。
義理なんて、ないじゃん、と思い直す。
身の丈に合わない欲求は圧し殺すのだ、私の中で。



仕事が終わり次第、車で迎えに行くよといつものように彼が言った。
約束の日時が決まるとアラームをかける。

『アラームは4日と18時間26分後に設定されました』

約束の日まで、何十回、何百回、アラームのON/OFFを切り替える。

『アラームは3日と2時間58分後に設定されました』
『アラームは2日と21時間3分後に設定されました』
『アラームは1日と4時間45分後に設定されました』



『アラームは2時間4分後に設定されました』

楽しみにしていたはずなのに約束の2時間前まで髪すら洗うことができなくて、体調不良を理由にリスケしてもらうなら今しかない、とスマホ画面のガラスフィルムに映った自分の素顔を睨む。

自宅の階段を下りて、廊下の角を曲がろうとしたときだった。
不意に私と壁の隙間をしゅるりと抜けた、小さな影があった。
見覚えのある大きさ、色、やわらかい、感触。

「うそ」

心臓が胸骨に叩きつけられるような、緊張と高揚。
だって、死んだんだ。
でもあの毛色。

どうせまた勘違いか何か、角を曲がったらもういないんだ、そう思いながら階段を上り詰めたところに、年末に死んだはずの猫がいた。

似てるとか、そんな曖昧なものじゃなく、死んだ猫本人がそこにいてご丁寧にも「にゃあ」なんて言うものだから、逆にすぐ、わかってしまった、これは夢だと。

ソファからむくりと重い身体を起こす。
握ったまま指紋だらけのスマホにはあしながおじさんからの今から出ます、の文字。

シャワー、浴びなければ。
真冬と同じ44度のシャワーを浴びながら「私の夢、カラーだった」と生まれてはじめて気付き、少し、泣いた。



当初の約束より30分ほど遅れてあしながおじさんが到着した。
車の中ではだんまりを決め込もうと思っていたのに、あしながおじさんの口車に乗って10分も経たずに1ヶ月の間に私に起きたことの全てを早口でまくし立てていた。



他人の話を、聞き出すのはこわい。



何か質問をして、かわされることがこわい。
私は小さな拒否を敏感に察知してしまうから。
だから私は永遠に自分の話をし続ける。
あなたの部屋には、靴を脱いでも入れない。



お寿司屋さんの空席待ちで母の近況を聞かれ、先ほどまでの饒舌さは嘘のように唇が重くなる。

保護を申請し、結果待ちだということ。
私のわずかな預貯金がまもなく底を尽くこと。
先日母と言い争いをしたこと。

ぽつりぽつりと話しているうちに涙が溢れ、やっとの思いで塗りつけた化粧を無様に流していく。

あしながおじさんは至極冷静に、穏やかに、今のお母さんにそれを言うのは酷というものだよ、と言った。

「どうしてお母さんの味方するのよ」
「お母さんの味方じゃない、いつでも正しい者の味方」

私、正しいじゃない。
今の私は正しいということだけしか拠り所がないんだから正しくないなんて言わないでよ、としかめっ面をすると「今日もいつもの味噌汁にするの?」と言うから、うん、とだけ頷いた。

一緒にいるとき、ほとんど私は食べたいものを言わなくていい。
このお店は一緒に何度も来ているから、黙っていても最初のうちに私の好きなものを頼んでくれて、締めには焼きたての玉子焼きを半分ずつ食べる。

いつもお金は多めに、1万円札は5千円と千円になるように崩して持って行く。
私が支払うことを求めても食事代を払わせてくれることはなかったけれど、せめて割り勘を、といつでも思っていたし、いつだって私が払いたいと思っていた。

だけどこの日は、くぐもった声で小さく言うしかなかった。
「・・・今日はご馳走になっても、いいです、か」と。
いつもご馳走になっているのだから、彼にとってはいつもと何も変わりないのだけれど、私にとってそれは天と地ほどの差があった。



お寿司を食べたら猿田彦珈琲でドリンクをテイクアウトするのがいつものパターンで、ご馳走になったからここは私が、と千円にも満たない会計をさせてもらうのもまた恒例だった。

しかし彼はこの日、数百円のコーヒー代すら私には出させてくれなかった。

ありがとう、と言いながら、また一つ人権を失った、などと可愛げのないことを思ってしまう。
この数百円が積もり積もって、私の生活が助かることは紛れもない事実なのに。

コーヒーを待つ間、ガラスの向こうで巨大なコーヒーマシンを操る白衣のスタッフを観察した。
いつも通り私は「あの人は劇団員だよ」という説を主張し、彼もまた「ほらあっちの人は居眠りしてるよ」なんて他愛もない言いがかりをつけてはふふふと笑った。



ホテルに着くと疲れていたのか、彼は日付の変わるずっと前に眠ってしまったので一人で館内を探検することにした。
館内のアミューズメント施設は当然カップルだらけ、どこの椅子もニ脚でワンセット。
1人オープンスペースでマッサージチェアに揺られる私は悪い意味で目立っていた。

全身を雑に揉み叩かれ、肩の位置も腰の位置も全然合ってなかったけれど、ひどく私は幸せだった。
部屋に戻れば必ずあしながおじさんがいる、寝ても起きてもどちらでもいい、帰ればそこに存在するという事実が、私の気持ちを存分に満たしてくれた。

私はきっとリードがついていないと自由を味わえないのだ。
何の制限もない空間で、好きなことを好きなだけしていいと言われたら、足がすくんで一歩も歩けない。
私のリードの先は5階のあの寝室に繋がっている、そう思うからこそ自由に歩いていられるのだ。

気に入ったデザートとドリンクを持って部屋に戻ると、気配に目覚めたあしながおじさんが「…デザート食べてきたんでしょ」と言うのでえへへと笑った。





会えたら、さみしかったと言うつもりだった。
人前だってかまわないから抱きついて離れないと、決めていた。

なのにいざとなったらさみしかったのさの字も言えない私はその代わりに「きらい」と言うほかなかった。
「きらい」と言うたびにお尻をピシャリと叩かれた。
叩かれるたび私の「きらい」は打ち消されていくようで、私は調子に乗って「きらい」を言い続けた。

何度かピシャリと叩かれるうちに、今度は叩いて欲しくなり「きらい」と言った。
するとそんな私の本心を見透かした彼はそこからお尻を叩いてくれることはなかった。私の言った最後の「きらい」は打ち消されることなく、本当の「嫌い」となって二人の間を漂っていた。



再び眠りに落ちる大きな背中をじっと見ていた。
寝て起きたらすぐ朝がやってくるから、寝ずに朝までずっと窓の外と彼の背中を交互に見比べていた。

あなた知らないでしょう、夜明けの空が悲しいくらいに綺麗だったこと。
昨日の夜と今日の朝の境目をなぞった指で、そっとあなたの掌を撫でたこと。



「私、書き続けてもいいの?」

あしながおじさんは何も言わなかった。
ほら、こわい。
質問をして、かわされることは、こわいことだ。

いつか私の自転車の荷台を支えるその手を黙って離すつもりだったら、離したその先で私が活き活きと自転車を漕いで旅に出ると思ってるなら、それは大間違いだよ。

私は自転車なんて乗れなくていいんだ、数メートル、ヨレヨレと走って振り向くとあなたが大きい口を開けて笑っているから、だから楽しくてまた走ろうと思えるだけで、振り向いてももう笑い合えないなら自転車なんて一生いらないんだ、乗りたくないんだ、わかってよ。





朝になり、長らく借りていた本を返した。
私にここを読みなさいとあしながおじさんが貼りつけてくれた付箋だけを手元に残して。

引き換えのようにお土産のプーアル茶を受け取った。
家に急須ある?と聞かれたので、ダサいやつなら。と答えると、良かった、と彼は笑った。



優しくてずるい。
穏やかでずるい。
言ってほしい言葉を察するとわざと絶対言ってくれなくてずるい。
一度だけ手を繋いだときに吹いてくれた口笛を何度頼んでもやってくれなくてずるい。
今日で最後って決めた日に、初めて会った日のシャツを着てくる偶然がずるい。



行きと同様に車で帰宅し、少し眠ると役所からの着信で目が覚めた。
審査の結果だった。
復唱し、メモをとり、電話を切り、そのまますぐにあしながおじさんにLINEを入れた。


『お土産、ありがとう

 ごめん、もう私、ご飯とか、行けない、』



これ以上あしながおじさんのお金を使わせることはできない。
彼がお金持ちだってそうでなくたって、月1だってそうでなくたって関係ない。
私なんかが普通に生きてたら経験できないような夢のような贅沢をさせてもらって、もう充分にいい思いをさせてもらったから。
それともからかってるの?
貧しい家の子をからかう貴族の遊びなの?
そうじゃないなら、そうじゃないなら早くお金持ちの国に帰りなよ、私も私の国に帰るから。










『牛丼食いに行こうぜ!(笑)』



・・・あなたって人は本当に育ちがいいな、人を傷つけないな。
私たち最下層の人間は些細なことで日々引っ掻き合いばかりしているというのに。

プーアル茶の封を開けると、数年ぶりにダサい急須を持ち出してお茶を淹れた。
あしながおじさんが外国で気まぐれに私のことを思い出して買ってきたお茶は古い箪笥みたいな薫りがして、私はまた持ち前のしかめっ面に磨きをかけてしまった。


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