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うらやましい死に方 

文藝春秋さんの うらやましい死に方 
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彼女が突然体調を崩したのは6年前のお盆を過ぎた頃だった。
それまでは元気で、食欲も普通だったが、お盆を過ぎたある日の朝、突然、噴水のように嘔吐したのだ。

彼女とは私の家族猫の事だ。
息子が生後一ヵ月ほどの彼女を連れて帰って来たのは、
更にその7年前の秋だった。
忘れもしない、その日、小さな彼女は、初めて我が家に来て震えていた。
母猫から離され、どんなに不安だったことだろう。
しかし、徐々に我が家の家族になり、家中の人気者になった。
彼女がいるのが当たり前になった我が家。
中心にはいつも彼女がいた。

そんなある日に彼女は体調を崩したのだ。
いつもの嘔吐とは違うと感じ。
直ぐに病院に行ったが、医者からは『腎臓の病気でもう手立てがない』と言われた。
にわかには信じられなかった。
そんなこと言っても、今にきっと良くなり、あれはなんだったんだろうと笑う日が来ると、私は心のどこかで高を括っていた。

しかし、そんな期待とは裏腹に、彼女は病院で言われた通り、徐々に食欲を無くし日に日に痩せて行った。
出窓にのぼり外を眺めるのが好きだったのに、出窓から椅子、椅子からローテーブルと低い物にしか登れなくなり、やがて座敷の座布団の上で終日過ごすようになった。
その頃にはもう、ほとんどご飯も食べなくなっていた。
そして体調を崩してから二ヵ月ほど過ぎた10月10日昼、彼女は息を引き取った。
その日、私は会社に行っていたが、嫌な予感がして有休届けを出し半日で帰る事にした。
私を待っていてくれたかのように、帰宅して間もなく、私の腕の中で彼女は静かに息を引き取った。

彼女が体調を崩してからの二ヵ月間、家族は全員、彼女の回復を願った。
どうすれば食欲が戻るのか、どうすれば少しでも快適に過ごさせてあげられるのか、一生懸命考え、工夫をし、見守った。
しかし、その甲斐なく彼女は天国へと旅立ってしまった。
家族全員が泣いた。
動物専門の葬祭場で家族だけで彼女を見送った。
全員が泣き、全員が彼女に感謝した。
義理の参列者など一人もいない葬儀では、人目など憚る必要もなく、彼女の頬に触れ、口づけをし、涙を流し、感謝の言葉を口にすることが出来た。

今まで参列したどの葬儀よりも心のこもった素敵な葬儀になった。


体調を崩してからも、彼女はずっと変わりなかった。
気分がいいと外を眺め、体調が悪いときは座布団の上で横になった。
何とかしてご飯を食べてもらおうと、潰したり溶かしたりしたご飯も欲しくなければ無理に食べたりしなかった。
だんだん衰えていく中で
彼女が何を考え、
どう感じていたのかを知る由もないが、私は彼女の生き様、死に様をリスペクトせずにはいられない。
抗う事なく、全てを受け入れ等身大で生きる彼女。
人間だけが病気に抗い、生きる事に執着する。
彼女から生きるとは、死ぬとはどんな事なのか教えられた気がした。
そして私は、彼女のように死を迎えたいと心から望んだ。
死後は彼女のように、私の死を本当に悲しんでくれる者のみで見送って欲しい。

満開の花がやがて散るように、熟し切った果実が落ちるように、生きる延長線上にある死を静かに受け入れ、そっと姿を消す。
しかし消えたのは姿のみで、大切に思ってくれる人のそばでは魂も気配も決して消える事はない。
むしろそれは、姿が消えたからこそ常にそばに感じられるものなのかも知れない。
そんな死を迎える事が出来るならば死ぬのもそんなに悲しい事ではないのかも知れない。

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