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【無料公開】『地獄くらやみ花もなき』第一怪 青坊主・2

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「え、ほ、本当ですか!?」
 直後に立ち上がった皓が、本棚から一冊の本を引き抜いた。大判の画集のようだ。
「江戸時代に鳥山石燕という絵師によって描かれた妖怪画集です。この本には〈画図百鬼夜行〉や、続編の〈今昔画図続百鬼〉などが収録されています。これは復刻版なんですけどね」
 白い指がページをめくる。
 さまざまな姿形をした妖怪たちに名称や解説が添えられていた。画集というよりは図鑑のような印象だ。活き活きとうねる墨の線は、恐いというよりはユーモラスなおかしみがある。いや、元より青児の審美眼なぞ節穴に等しいのだが。
「さて、本題です。こちらの絵を見てください」
「あ!」
 あまりの驚きに青児は声を失った。
 皓が指差したのは、ひょうきんな坊主頭の妖怪だった。ひょこひょこと鶏に似たポーズをとって、耳元まで裂けた口で笑っている。駄菓子オジサンそっくりだ。
 そして、その横に添えられた名は――。
「ひょうすべ?」
「河童の一種と考えられる妖怪で、手長猿をモデルにした毛深い小坊主の姿で知られています。ひょうきんな姿ですが、河童と同じで水辺を通りかかった子供を水中に引きこんで溺れさせ、尻子玉を抜いて殺すとも言われていますね」
 うん? 子供を引きずりこんで水死させる?
 ふと引っかかりを覚えて青児は首をひねった。同時に、再び皓の手がページをめくる。次に現れたのは、両腕にびっしりと目玉の並んだ女の姿だ――百々目鬼とある。こちらは伯母のそっくりさんだ。
「ご覧の通り、腕に無数の鳥の目がついた女の妖怪です。昔は穴あき銭のことを〈鳥目〉と呼んでいましたから、銭泥棒をし過ぎたせいで腕に鳥の目が百もできてしまった女スリ師を指すんですね」
 では、まるで同じではないか。
 子供を用水路で溺れさせた男がひょうすべとなり、盗癖によって離婚された伯母が百々目鬼になったと言うのなら、それは――。
「つまり青児さんの目には、その人物の隠された罪を暴き立て、それを妖怪の姿として認識する力があるみたいですね」
 実にあっさりと皓は断言してみせた。
「そもそも妖怪という存在自体が、怨み、憎しみ、妬みといった人の心の闇を表したものだとする研究者もいますからね。元来、妖怪そのものが人の世にひそむ悪を映し出す鏡なのかもしれません」
 含蓄深そうに聞こえるものの、わかったようでよくわからない物言いである。はあ、と生返事をした青児に対し、くすっと皓は小さく笑って、
「しかし青児さん自身も、まるで妖怪みたいですね」
「ど、ど、どうして」
 動揺で声が裏返ってしまった。
 あからさまに狼狽えた青児に、なおも皓はくすくすと笑って、
「だって、青児さんそっくりの妖怪がこの本の中にいますからね」
 開いたページには、悪人面になったアンパンマンがいた。いや、違う。どうやら人面の円鏡を描いたものらしく、これも妖怪の一種のようだ。添えられた名は――雲外鏡。
「およそ器物の霊と言われているものの中で、最も古くから存在するのが鏡の霊だとされます。その一つが、この雲外鏡です。妖魔の正体や人の悪事を暴く魔鏡――〈照魔鏡〉が妖怪化したものなんですよ」
「鏡、ですか」
 問い返したその時、ふと脳裏によみがえる記憶があった。
 確かあれは五歳の頃だ。公園で一人遊びしていると、空からキラキラと鏡の破片が降ってきた。本来は逃げるべきところだが、そこは脳みそ貧弱な五歳児である。
 こんな綺麗なものは見たことがない。そう思ったから手をのばした。光の軌跡を追うために、目をいっぱいに見開きながら。
 直後、その破片の一つが左目に入って――。
「あ―――!」
 そうだ。あの時、確かに眼球に痛みを感じた。なのに泣いて家に帰ると、傷一つ見当たらなくて「人騒がせな」と親から拳骨を食らったのだ。だから、あれは白昼夢のようなものだと思っていたのに。
「ああ、きっとその破片が照魔鏡だったんだと思いますよ」
 思えば、ちょうどあの頃を境に化け物の姿を目にするようになったのだ。となると、確かにその可能性が高いのだろうが――。
「ま、まさか、そんな非現実的なことって」
「ふふ、しかしどんなに否定したところで、青児さんの左目に不思議な力が宿っているのは変わりありません。活かさない手はないと思いませんか?」
 他人事と思ってか、皓少年の声はワクワクと弾んでいる。
「けれど、一体どんな風に?」
 この場合、警察官になるのが最も有効な活用法だろう。なにせ一目見ただけで犯人を特定できてしまうのだから。しかし公僕になれるだけの甲斐性などあるはずもない。
 一般市民として通報する手もあるが、「もしもし、あの人は何か悪事を働いているみたいですよ」と言ったところで、肝心の理由が「だって妖怪に見えたので」では、あわれみの眼差しで病院を紹介されて終わりだろう。
 だいたい就活のエントリーシートで「趣味・特技」の欄に「他人の罪を一目で見抜けます」と書いたところで人事担当にお祈りされるのがオチだ。
「ふむ、そうですね。手始めにうちでバイトしてみませんか?」
「え?」
「この屋敷の客人が青児さんの目にどう映るのか、それを僕に教えてくれればいいんです。ね、簡単でしょう?」
 至極あっさり言ってくれるが、そう単純なものだろうか。
「いや、けれど」
「もちろん衣食住は保証します。温かな寝床と食事、ついでにお小遣いも差し上げましょう。働いた分の給金も、きちんとお支払いしますので」
「ちょ、ちょっと待った!」
 たまらず青児はストップをかけた。
 そして「何か?」と首を傾げる皓少年に向かって、
「どうして住みこみ前提になってるんですか!」
「ああ、そんなこと。どうやらここ最近ネットカフェを泊まり歩いているご様子なので、住居も提供した方がいいかと思いまして」
「ど、どうしてそれを!」
 図星を指されて目をむく青児に、ついっと皓は人差し指を立てると、
「まずは傘ですね。雨が降ったのは五日前です。今日のように雨と無縁な日も傘を持ち歩いているとなると、傘はあっても置く場所がないと考えるのが妥当でしょう。つまり頻繁な移動が必要で、かつ宿なしということになります」
「う!」
「次に肩にかけたショルダーバッグです。サイドホルダーからミネラルウォーターのボトルが突き出していますね。しかし開封済みな上に中身はオレンジジュース。わざわざボトルを詰め替える人は珍しいですから、常に空のボトルを持ち歩いていて、中身をドリンクバーなどで補充していると考えるべきでしょう」
「い!」
「加えて、上着の右ポケットから携帯ストラップがはみ出しています。取り出しやすい位置にあるのを見ると、まだまだ使用可能なようです。回線も止められていないし、充電環境もある。となると」
 そこで言葉を切った皓は、にこっと青児に笑いかけた。
「可能性として高いのは、ホームレス一歩手前のネットカフェ生活。かつ、この暮らしを始めてからまだ日が浅く、せいぜい二週間程度と言ったところでしょうか」
「な、な、な!」
 唖然とするより他になかった。
 酸欠の金魚よろしく青児が口をパクパクさせていると、
「気にさわったらすみません。なにせ僕ですので」
 そう涼しげに言い放って、皓は二杯目のティーカップに口をつけた。
 物言いは殊勝なのだが、まったく悪びれた様子がないのはどうしたものか。いや本当に嘆くべきなのは、初対面の相手にここまで見抜かれてしまう我が身の薄っぺらさなのかもしれない。
「おや、早速、次の方がいらっしゃいましたね」
 慌てて振り向くと、そこに見覚えのある姿があった。
「あ!」
 素頓狂な声が出た。
 先ほどコンビニ前ですれ違った女性だ。若奥様という呼び方の似合いそうなセレブな立ち姿が、書斎の空気と見事に調和している。
 そして瞬きをした一瞬、その姿が青い僧衣の一つ目坊主へと変化し、また元に戻った。
「あ」
 向こうも青児に気づいたようだった。
「あの、こちらの方は?」
「ああ、助手の遠野青児さんです。置き物のようなものだと思ってください」
 あんまりな言われようではないだろうか。
 ともあれ、先ほどの青児と似たようなやり取りの後、あれよあれよという間に新客を加えてのティータイムが始まった。
 この少年、実は凄腕のナンパ師ではなかろうか。
「悩み事、ですか」
 例によって「悩み事相談のような」と仕事の説明をした皓に、乙瀬沙月(おとせさつき)と名乗った彼女は、ふと興味を引かれた顔つきをした。
「たとえば、どんな相談事が?」
「千差万別ですね。どんなに些細なことでもかまいませんよ。たとえ喉に引っかかった魚の小骨でも、抜けない限りは痛いままでしょうから」
「あの、じゃあ、その、本当に何でもないことなんですけど」
 と、沙月さんは恐縮したように前置きして、
「実は〈カスミソウの花束を〉というタイトルで個人ブログを開いてるんです」
 既視感がある。ずばり〈アルジャーノンに花束を〉の成りそこないだ。
「料理レシピや日記をのせてるんですが、雑誌の取材を受けてからアクセス数が急増して、メールやコメントがたくさん寄せられるようになったんです。ほとんどは好意的なものばかりなんですけど、中に一つだけ」
 スマホを差し出した左手には、結婚指輪のダイヤモンドが光っていた。
 表示されたのは、PCメールの受信トレイだ。メッセージの内の一通をクリックして開く。件名も本文も空欄のまま、画像ファイルが添付されている。
 ファイルを開いた瞬間、ほお、と皓の口から声がもれた。
「これは異様ですね」
「うわ、本当だ」
 横から頷いた青児も、思わずげっと顔をしかめる。

 首を吊らないか?

 現れたのは、そんな一文だった。
 ルーズリーフに殴り書きした文字を、デジカメかスマホで撮影したもののようだ。それだけで十分不気味なのだが、その上さらに――。
「なるほど、鏡文字ですか」
 殴り書きの文字は、上下はそのままに左右が反転している。鏡に映して反転させれば、きっと普通に読めるのだろう。
「さすがに気味が悪くて、すぐ拒否設定にしました。けれど、また別のアドレスから送られてきて、そのままイタチごっこになってしまって」
 ひっそりと沙月さんが溜息を吐いた。言った。改めて見ると、寝不足のためか薄ら隈が滲んでいる。憔悴しているようだ。
「差出人に心当たりは?」
「いいえ、全然」
 パチパチと大きく瞬きをして沙月さんが言った。
「返信はしたんですか?」
「無視しました。この手のイタズラは、相手にするとつけ上がると思って」
「賢明な判断です。警察に相談は?」
「いいえ、まだ。趣味でやっているブログですから、実害もないのに相談するのは気が引けて。あまり大事にして閉鎖に追いこまれるのも嫌でしたし」
「なるほど、ブログは止めたくないんですね?」
「はい。仲良くしてくださっている方も大勢いますし、毎日来てくださっているファンもいますから」
 ブログはおろか、LINEやTwitterといったSNSにすら縁がない青児にはよくわからないが、まあ、そういうものなのかもしれない。
 しかし、だ。
 確かに不吉なメールが届いたからといって即座に命を奪われるわけでもない。けれどイタズラと片づけるには、あまりに文面が不穏すぎやしないだろうか。
 と、ちょいちょいと皓に上着の袖を引っ張られた。
 〈何か?〉とアイコンタクトで訊ねると、すっと本が差し出される。先ほどの妖怪画集だ。〈片づけろと?〉と訊ね返すと、〈いえそうではなくて〉と苦笑が返ってきた。目次のページを爪先でとんとん叩かれ、ようやく察してページをめくる。
 やはり、あった。
 開いたページを上向きにして皓に返した。描かれているのは、古びた草庵を背にして佇む一つ目坊主だ。添えられた名は――青坊主。
「なるほど、確かに合点がいきますね」
「え?」
 独り言のように呟く皓に、沙月さんが怪訝な顔をする。
「もう一度お聞きします。本当に、差出人の心当たりはないんですね?」
 念を押すように訊ねた皓に、沙月さんはパチパチと不自然に大きく瞬きをして、
「いいえ、何も」
 短く答えて首を振った。何となしに引っかかりを覚える態度だ。
 と、気まずそうに沙月さんが目をそらして、
「あの、実は、お伝えしそびれてしまったことがあって」
「何です?」
「実は、ここ四ヶ月、一度も届いていないんです」
 正直、拍子抜けしてしまった。
 聞くと、以前は三日にあげず届いたものが、突然ぴたりと途絶えたらしい。
 ならば解決済みではないだろうか。表面上は一件落着のように思える。
「ええ、私もそう思ったんです。なのに胸騒ぎがおさまらなくて。このままだと不幸になる、取り返しのつかない何かが起こるって、そんな気がしてならなくて」
 思いつめた顔で言って、沙月さんは自嘲するように苦笑した。
「変なこと言ってますよね? 自分でも理屈に合わないと思うんです。もしかすると初めての妊娠で気持ちが不安定なのかもしれません」
 その言葉に、皓は意外そうに瞬きをした。
「おや、お腹の中に赤ちゃんが?」
「ええ、妊娠五ヶ月になります。これから産院に行く途中なんです」
 柔らかな笑みが唇に浮かぶ。そっとお腹の上に押し当てられた手は、卵を慈しむ親鳥よりも優しげだった。
 ――幸せそうだ。
(あれ?)
 その時、ふっと引っかかりを覚えて青児は首を傾げた。しかし、その理由まではわからない。単なる気のせいだろうか。
「変な話をしてすみません。けど、誰にも相談できなくて」
「では、旦那さんにも?」
 皓の問いかけに、沙月さんはたじろいだ顔で目を伏せた。
「夫は、この頃様子が変なんです」
 そう切り出すと、ためらうような沈黙を置いて、
「近頃、煙草の本数が急に増えてしまって。お腹の子に悪いって何度も言うんですけど、いつも返事が上の空で」
「それは弱りますねえ」
「父親としての自覚がないみたいなんです。男性ですから仕方のない面もあるとは思うんですけど、お腹の子を疎んでいるように感じられる時もあって」
 夫の名は、乙瀬凌介(おとせりょうすけ)。新進気鋭のグラフィック・デザイナーだ。
 仕事柄、徹夜仕事は当たり前。だからこそ少ない休日を夫婦二人で過ごし、外食やショッピングを楽しむのが結婚当初からの約束だった。なのに近頃の夫は、ふらっと一人で出かけてしまう。
 何より気がかりなのは、お腹の赤ん坊へのぞんざいな態度だ。ベビー用品の相談をしても「ああ」とか「うん」と生返事をするばかりで、酷い時には舌打ちで話を打ち切ろうとする。
 まるで妻の中にいるのが、得体の知れない化け物だとでも言いたげに。
「それは――」
 浮気では? と言いそうになって慌てて止めた。妊婦にストレスはよろしくない。
「マタニティーブルーってやつなのでは?」
「あの、男性はパタニティブルーだと思いますけど」
 慣れない横文字を使うとすぐこれだ。
「それなら、確かに心配事は一つでも減らしたいですね。つまり沙月さんは、そのためにこれから皓さんに犯人探しを――」
「いえ、そのつもりはないんです。むしろメールの件はそっとしておきたいと思っています。変に刺激したくなくて」
「え、けど、胸騒ぎで悩んでるって」
「ええ、ですから、なんとか心を落ち着ける方法がないかと思って」
 今一つよくわからない。そう思ったのは青児だけではなかったようだ。
 カチリ、と磁器の触れ合う音がして、
「どうもおかしな話ですね」
 と、ティーカップをソーサーに戻して皓が言った。

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